哀しみ本線ベーリング海15
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡長い対峙長い沈黙だった。何年振りだろう?こうやって、この男の顔を真正面から見据えるのは。昔、まだ友がこの男の父親が生きていた頃は、この男と同い年の、己の長男と、もう1人の親友の息子と共に遊び、共に学んでいる姿を、毎日の様に見ていたものを…そして、年の離れた兄達に遅れまいと、小さな体で懸命に走り、付いて回る、可愛くて仕方の無い次男の幼い姿を、まるで、昨日の事の様に脳裏に浮かべ、やるせない哀愁を感じながらナム・ジョンソは、今一度目の前に居る男を見た。利発な子だった。闊達な若者だった。いわれ無き罪を着せられ、官職を剥奪され、財を、名誉をも奪われた汚辱と心労とが体を苛み、友は、まだ若い息子と体の弱った妻を残して、無念の内にこの世を去った。その妻も、暫くもせずに後を追う様にみまかり、何もかもを失った、1人息子だけが残った。その当時の、未熟な己には、罪を着せられた親友に、どうしてやる事も出来ず、巨大な権力の前に、何の策も打てず、大切な、兄弟の如き友を見殺しにしてしまった後悔と怒りの中、懺悔の気持ちと、せめてもの思いで、もう1人の親友と共に、友の忘れ形見を見守って来た。しかし、苦渋の嵐の中に突き放されてさえ、友の息子のチャンセンは、例え賤民に身を墜とされても決して歪みもせず、腐ったりせず常に前を向き、高潔の心を持ち続けていた。誇らしかった。まるで、己がもう1人の息子の様に思うチャンセンが誰よりも誇らしかった。申し出た援助を丁寧に断り、自分の力だけで、逞しく懸命に生き抜いて行くチャンセンが又、眩しくもあった。どこ迄も見守って行こう、自分の力で、立ち行かなくなった時には、無条件で手を差し伸べよう!いつの日にか、チャンセンが成長し、自分の宮廷内での力が、揺るぎない物になった暁には、友の汚名を晴らし、再びチャンセンの身分を回復させ、家を復興させてやろう!そう、心に堅く誓っていた。それなのに、その温情を、裏切る如くチャンセンは、大事な大切な息子を、奪い去ってしまった!まだ幼く、世間のなんたるかさえ知らないあの子を、家と離別させ、賤民へと貶めてしまいおった!これが怨まずにおられようか?万年億夜の時を過ぎれども、決して許し難く、二度と顔も見たく無かった。時節毎の挨拶をしに、家族揃って裏門に来ていた事も知っていた。コンギルの母である、己が妻も、とうの昔に諦め許容したまに会っている事も承知していた。なれど、この国、朝鮮は両班の国その両班たる尊厳、秩序を乱すは、国をも乱す事になる。例え愛しい息子だろうが、縁を切れば、もう他人も同然。ましてや、罪を犯し罰として賤民に落とされたのなら、尚更会う訳にはいかぬ。それ故に、その最たる原因を作った、この目の前の男が余計に許せなかった。ナム・ジョンソは更に憎々しげな顔で、地面に平伏するチャンセンを見た。「お前になど、会う気も無ければ、掛ける言葉さえ無いわ!何の気の迷いで、此処に参ったかは知らぬがどの面下げて、ワシの前に表れた!今度会うたなら、手打ちに致すと申し伝えた筈、よもや忘れた等とは言わさんぞ。命長らえたくば、とっとと去ねい!」そう恫喝すると、控えていた使用人達に、手先で合図してチャンセンを追い出そうとした。使用人達に、引きずり出されようとして掴まれた両の腕を、バッ!と力任せに振り払うとチャンセンは、ササとジョンソの前に進み出で、再び地面に平伏すと、しかと、屋敷の主を見詰めながら「旦那様、私共が、この国とナム家に掛けましたる罪、決して許される事とは思いませんし、叉、一生掛けても、償う事は出来ないと存じております。こうして、旦那様の御目に触れよう等、とんでも無い事だとも、心致しております。なれど今回、どうしても旦那様に話をお聞き入れ頂き、是非ともお力添え頂きたき願いが御座います。」口上を述べるチャンセンにサッサと背を向け、部屋の奥へと入ろうとした主人が、ぐるりとその身を向き直し、忌々しげに声を荒げた。「願い?今、願いと申したか?ワシを裏切り、不義理を働いた輩が、願い?!大切な息子を奪い、後足で家名に泥を塗ったそなたが願いだと!何処までも恥知らずな…盗っ人猛々しいとはこの事よ!!ええい、とっとと出て行けっ!」主の怒りも頂点に達しようかの時、引きずり出そうと、再び腕や襟首に伸びて来る使用人の手を振り払いながら、チャンセンは、有らん限りの声で嘆願した。「コンギルの、事は、コンギルに関しての願いで御座います!どうか、どうか話をお聞き入れ下さい!コンギルが失踪致しました!コンギルが今朝早くから、幼い子と共に姿を消してしまったので御座います!方々捜したが見つからず、様々な伝手を当たりましたが、手掛かりを得られず、捕盗庁(ポドチョン)に、捜索を願い出ましたが、たかが賤民と一蹴され、もう、為すすべも御座いません。近頃は、巷で人攫いが横行しもしや、人買いの手に落ちたのでは?或いは、何等かの事件に巻き込まれ、自分で、どうする事も出来ずに苦しんでいるのでは?とそうなったら、もう私の力では、とても太刀打ち出来はしない、わたくしの様な不忠者が、何をほざくかとお怒りはご尤も、ましてやお願い等と…なれど今回ばかりは、既にわたくしの手には負えない事態とあいなってしまいました!もう、こうなりましては、旦那様にお縋りするしか他無く…はい、確かに恥を忍んで来ました。が、しかしコンギルの為、家族の為なら私の掻く恥等、恥とも思わない。あいつらの為なら、誰にへつらい遜(へりくだ)っても構わない!故に、厚顔無恥は重々承知の上での願いに御座います!ナム令監(ヨンガム)、ヨンガムのお力で、どうかコンギルをコンギルと子供をお捜し頂きとう御座います!どうかお力添えの程、お願い致したくっ!どうか、どうかお聞き入れ下さいませ!!」しかし、数人の使用人に、強制的に引き摺られたチャンセンの懸命な嘆願の声は、次第に遠のきその姿は、大門の外へと消えて行った。コンギルが失踪した?家門の為、長男の立身に障らぬ為に縁を切ったとは言え、息子は息子。ナム・ジョンソは、チャンセンの言葉に、狼狽の色を隠せなかった。「叔父上、私からもお願い致します。」不意に、背後から声が掛かりナム・ジョンソは不審気に辺りを見渡した。すると、軒先下の木陰から、ヨンギがその姿を現した。