音楽 : Rodrigo Leão / o mundo(세상) - a janela(窓)
場所 : 済州島


Rodrigo Leã


Madredeus 時代


インディーズバンド Sétima Legião 時代



[短いエッセイ]
詩人の呼び名

文化芸術界にはさまざまな職業がある。 画家、作曲家、舞踊家、演出家、小説家、劇作家… 彼らはそれぞれ自分の仕事に対する呼称として各ジャンルの名詞の後にそれを専門的に製作する人という意味の「家」が付いている。
しかし、詩を書く人は「詩家」ではなく「詩人」という。 どうして詩を書く人だけに「人」をつけるのか。
みんな人間のために感動的なものを作り出す人という共通点にも、詩を作る人だけが「人」だなんて···。 おそらく詩を作る行為は職業としてふさわしくなく、調和してもいけないという人々の願いかもしれない。 すべての作家たちを職業としての位置を認めるが、詩人だけは最後まで職業でないこと、職業として存在することができず、存在してもいけないと思う。 詩を通じて、自分の純粋さを最後まで守りたいという願いかもしれない。
恋人も「人」を使う。 恋愛は職業ではない。 もし恋愛を仕事とする人がいるなら,彼は犯罪者である.
他分野の職業群でもこのようなものが通じているが、職人、宗教家、達人、芸能人、さらに犯人もいる。 犯人も犯罪者と差別される点があるとすれば、それも職業とは関係なく犯罪行為をしたということだ。

少し尊敬すべき職業としての「家」、尊敬されずにそのまま認める「者」、そして型にとらわれず自らの情熱を認める「師」または「手」そして最下位の「奴」がいるが「人」は彼の仕事が尊敬とは別に直接または間接的に私たちにとっては存在自体が心の安息所のようなものであって、そんな心が認めるのが人間であって職業ではない。

詩人という感じの条件の中には、「彼は金持ち」とか「あまりにも軽くて朗らか」とか「いつも忙しい」とか「冷たすぎる」とか···。 詩人なら、このようなものとは距離が遠くなければならないと思い、その逆が似合うと信じたくなる。 これはまるで恋人に望んでいるようなものだ. このように、詩人は恋人のように、最後まで常にそうしていてほしいという精神的な対象だ。 職業としての恋人がいないように、職業としての詩人とは、もはや成り立たない虚偽である。 詩「人」は他の「家」と確かに他の一つがある。 それはすべての「家」は創作において締め切りという枠に制約を受けるが、詩人にだけはそんな締め切り時間という枠はない。

詩人は、読者の恋人として残っている時こそ詩人だ。 さもなければ「家」或いは「者」にまでなるだろう。

少なくとも詩人が忙しいことは耐えられない。








Rodrigo Leão / o mundo(全曲)blob:https://www.youtube.com/f9f23d86-06d2-482b-9b40-bf362a08a550