音楽:キム·グァンジン - 手紙
演奏:チョン·ジェドク(ハーモニカ)
詩:Fernando Pessoa - PRECE(祈り)
詩の朗読:Maria Betania
言語音響/Fernando Pessoa
時代と文化、そして方向が全く違っても、このようにうまく調和できるのか。
全く異なるいくつかの次元が交接する一点はある。 ただ、その一つの点を想像しなかったり、衝突の危険から守るために不必要な想像をしないためだろう。
音楽は韓国のシンガーソングライター「キム·グァンジン」の「手紙」で、ハーモニカ演奏者「チョン·ジェドク」の演奏である。
市はポルトガルの国民的な詩人「Fernando Pessoa(フェルナンド·ペソア)」の「PRECE(祈り)」であり、
詩の朗読はブラジルの『マリア·ベサニア(Maria Betania)』が行った。 彼女のある歌以上に美しい響きが感じられる.
母語とは体を構成するタンパク質のように体内に固着した言語である. しかし、外国語はその意味は分かっても、簡単に消化されて自我のタンパク質になることは難しい。 それは単に歌詞のないインストゥルメント音楽のように聴覚の感覚的な音響に過ぎない。 そのような音響信号は、自分の身体システムに合わせて抽出して再生産し、個人的で自分だけが消化できる全く違う新しい言語音響になる。
私たちが解釈を超えて、その情緒そのものを理解できない第3世界の歌を聞く時、私たちはただそのメロディーだけでなく、知ることができないその歌詞さえ効果音響のように音楽の一部として解釈する。 そして、そこで自分の個人的な感性の経験を混ぜて、誰とも違う自分だけの音楽を作って聞くことと同じだ。
それは今まで突出していなかった別の自分の内面を探すようなものかもしれない.
もちろん音楽によって違う場合があるだろうが、あまり消化できない原語歌詞の意味を見出して、どんなアイデンティティもない空中楼閣のように飛ばしてしまう必要はないだろう。
ある日、自分の思い出のアイデンティティにして大事にしてきたある音楽の歌詞の意味を探してみて、意外にもその違いに失望し、むしろその意味を探さなかったらよかったという曲が多いだろう。
主観的な視覚のように主観的な聴覚の経験と思い出は自ら作った自分だけの大切なアイデンティティであり、存在が美しいことができる構成体の根幹だ。
Fernando Pessoa(フェルナンド·ペソア 1888 ポルトガル·リスボン)1935)
フェルナンド·ペソアは本国以外ではあまり知られていないが、ポルトガルでは国民的な詩人として有名だ。 生涯、一人ぼっちとアウトサイダーとして生きてきた彼だから、それはもちろん彼の死後のことであり、後にヨーロッパの文化的地方都市のようだったポルトガルをモダン文学の中心に押し上げた人物としてポルトガル紙幣の人物としても使われた。 まるでカーボベルデのセザリア·エボラのような存在というか。
氏は、「一般読者より詩人らが、初恋のように切望し、愛する詩人だ。 彼は生前ポルトガル語で出版された詩集がたった1冊だったが,彼の死後彼の部屋では未発表の2000~3000千本の作品が原稿用紙ごと発見された そのため、現在出版された彼の本は本人ではなく、後世の出版者によってまとめられて作られたものである。
彼は、特に文学教育は受けていないが、生涯、多くの文章を書いてきたが、彼は自らを詩人と呼ぶことを望んだ。
彼は独特な作品のように彼は多くの異名で活動した作家だが、なんと70~120個の異名で文を書いて発表してきた。
その理由は次のような彼の詩を見ると少し分かる。
- - -
数えられないものが、 僕たちの中に
(フェルナンド·ペソア1935年)
数え切れないものが私たちの中に住む、
私が考えたり感じたりする時には分からない
考えて感じる人が誰だか。
私はただ感じたり考える
一つの場所
私には一つ以上の魂がある。
私自身より多く外出している。
それでも私は存在する
すべてに無心のまま
彼らに黙らせておいて、話は私がする。
僕が感じたり感じたりしない
すれ違う衝動たち
自分という人の中で争う。
私は彼らを無視している. 私が知っている私に彼らは
何も呼んでくれないが、私は書く。
- - -
このように彼は自分の中にいくつかの自我を持っていて、それらをコントロールできる人だった。
彼の数十個の異なった名前の作品はそれぞれ固有の主観性を持ち、その異なる名前は互いに影響を与え、否定し合い、統合するそれぞれの有機体のような人格体と同じだった。 また、彼は主観的で固有の知識を否定した。
「彼らは私の中を通り過ぎる。 彼らは私の考えではなく、私の心を通り過ぎる考えだ」と話した。。
したがって、全ての作品はフェルナンド·ペソア一人のものだと言ってはならず、各作品ごとに異なった名前の作家のものだと言うべきだろう。
このように彼は1ヵ所に安住し、井戸を掘るよりも空を自由に飛び回った。 重みも深さも感じられない、いつもあちこちで私たちを気づかせてくれる。
- - -
ポルト風内臓料理
ある日、食堂で時空間の外で私に
愛を冷めた内臓料理のように持ってきてくれた。
私はコックに礼を尽くして言った
私は温めてあげる方が好きだと、
内臓料理は絶対に冷たく食べないって。
それは人々の気分を逆なでした.
正しいことも言い出せないなんて、食堂でさえも。
私はそれを食べてもいないし、
他のものを注文してもいないし、
勘定をすませた後散歩でもしようと外に出た.
これが何を意味するのか誰が知っているだろうか。
意味はわからないが、私にあったこと。
私はこれをいつまでも思い出すようになった.
なぜ私は愛を注文したのに、どうして冷えた内臓の料理をくれるのか。
冷やせるものではないのに、どうして冷やしてくれたのか。
絶対に冷たく食べるわけじゃないのに、 冷たく出たんだって。
冷たすぎたって。
- - -
チェスをする人たち
こんな話を聞いた
昔、ペルシャが名も知らぬ戦争をした時、
都市内は外敵の侵入で沸き立ち、
女達が悲鳴をあげている時、
2人の技師がチェスを置いていた
いたずらにチェスの試合は続いた。
(後略…)
- - -
神々に唯一望むのは
私が神々に唯一望むのは
彼らは私を思い出せないのだ
私の人生は風のように自由だろう
幸福も不幸もない自由
何もない空気の中で。
憎悪と愛は同じように私たちを探す
そして2人とも自分のやり方で、私たちを抑えている。
神が何も施さない者に
まさに彼には自由があった。