『悲しみの秘儀』

著書 若松英輔さん

この作品は、
端的に言えば、
悲しみがあるからこそ、
幸せを、感じるということを、
記された作品です。

しかし、
そんな、端的という
単純に囲む、
僕は、浅はかでした、。

それは、
闇(悲しみ)と光(幸せ)、
いくら、闇につつまれ隠れた気持ちも、
光が当たれば、
浮かびでる、そう感じた作品です。


頭ごなしに、
今日という、あたりまえの生活、
絶えず、ありがたいんですよ、と
言われても、
本当に、感じることは、
できるわけもない、
無理に、思うのは、
嘘でしかない。

悲しみが、起こるがゆえに、
初めて気付かされること、
それが、
幸せと語られています。

悲しみ、幸せ、
それは、
一人一人、まったく違うもの。

例えば、
本当によかったですよ、
ぜひ読んで欲しいと、思って、
プレゼントした本があったとしても、
その本の中から、
その人の、心にささる文章は、
まったく違う場面であり、
共感する文章も違うかもしれません、
一人一人、
違う思いをするに違いありません、
まして、全く、最初から、
最後まで、読んでいただいても、
一文たりとも、良かったと思わないことも
あると思います。

それは、なぜなのか、、、

それは、
もともと、
心に宿っている、気持ちが、
文章という光で、
照らされない限り、
形が、現れないからだと、
この作品を、読み知りました。

学んだり、見つけたり、
あたかも、自分が、発見したかのような、
自慢げに、話す言葉も、

じつは、
もともと、心に宿っているもので、
それが、ライトで、照らされて、
浮き出たものだと、この作品で知りました。

幸せは、
一人一人、全く違うものであり、
その大きさを、
一定に、囲えるものではないと、
気付かされました。

それは、
悲しみの大きさと、
比例しているものでもあるのかなと、
思いました。

この作品の中で、
女性が、死の淵にたち、、
這いつくばって、
ひとひらの、
桜の花びらを、掴もうとするお話しが、
書かれていました。

その、桜の花びら、
僕が、春の日に、多摩川をジョギングしながら、気づかず、
道に落ちいている桜の花びら一枚と、
彼女が、掴もうとしている、桜の花びら、
花びらに対する、気持ちは、
おそらく、僕は、
あたりまえと思っているが、
彼女は、
掴み取れない、大きな悲しみを
抱いき、
その先の、幸せを、
掴もうととしている。

まったく、同じ、ものでも、
幸せに、
気づくのは、、
大きな悲しみの先に、あると気付きました。

なくなって、初めて気付かされる、
幸せ、、。
なくなって、初めて気付かされる、
あたりまえという、幸せ、。

よく、今日、起きれたことを、
幸せに思うようにしましょう、と、
言われることありますが、
僕は、
正直にいいまして、
本当には、、
受け止めていませんでした、。
なんで?という気持ちの方が、
強かったです、。

これからは、
忘れる時も、あるかと思いますが、

昨日の僕よりは、

あたりまえの幸せ、

気づく自分、

増やして、生きたい、そう思った、
作品です。

まさしく、
『悲しみの秘儀』です。
そう思うことが、。

僕には、
いつか、表現できたらいいなぁと思うことがあります。
それは、本を書きたいのですが、
その本の、内容は、
まったく決まってません、

でも、
描きたい事は、
決めてます、
それは、

なんでもない、
なにも気にしない、
むしろ、めんどくさい、と思う、
時間が、
歳を取り、一人になり、
誰も居ない家で、
その時間を、思い出し、
胸がさけるほど、
ありがたい時間だったと、
思う、
そんな、本を、書きたい。

すみません、
大それた、、お話しですが、。
でも、この作品を、読み、
より深く、刻まれました。

皆さま、ぜひ、ぜひ、
一度、ゆっくり、
読まれて欲しいです😃