いくら人格者であっても、

専門領域で、高いパフォーマンスを上げていても、

努力肌で、鋭い攻撃性を、単にお勉強や研究に昇華させただけのような、

人は昭和には多かったが、

そういう人は、令和やAI時代には、受けなくなるのではないか。


uselessclassとして、生まれたときから働かなくて良い新世代は、

努力や攻撃性や、伝統的な道徳を、自分のものとして内在化させなくて済む。


やせ我慢を無理にでも20年30年して、人格形成に役立てる必要は全くなくなるはずだ。


言い換えれば、

これまでの道徳とは、

鋭い他者への攻撃性を、さらに鋭くして、自分に向けて努力苦役を課し、高楊枝をして、自分を磨いていたが、その実してきたことは、修行30年間、人の気持ちを考えず、我武者羅に、他人を打ち負かし、他人に勝つことばかりではなかったか。自分のことを優先して、自己磨きという美名に隠れて、酔いしれ、しかし、他人を攻撃するための武器武装を、理論的にも筋肉的にもしていただけ。30年間もずっと。人により60年間70年間だろう。そういうやせ我慢は、むしろ、AI時代には、害悪で、人格を歪めてしまうだけ、になってしまうのではないか。


なぜなら、そもそも、努力ややせ我慢をし過ぎて、あるいは、普通程度にやせ我慢する程度では、受験も運動も、到底成果が出せなくなるほど、競争相手であるAIが圧倒的に勝ってしまうからだ。報われない。

そのうえ、報われない修行、負けるための修行、報われない攻撃性が、30年後にあふれ出したら、どんなに恐ろしい悲劇になるか。あるいは、喜劇的様相を帯びるのか。それはNietzscheのツエラツストラを見れば物凄くよく分かる。

そして、ツエラツストラは、最後の覚醒した人で、やせ我慢修行の悲劇を、喜劇的に物語っている。つまり、時代遅れのやせ我慢修行なんだ。


こういった価値観、すなわち、人格完成は、これまでの過去2000年は通用してきた共通基盤のはずだ、少なくとも日本人にとっては。

即ち、苦労苦役でやせ我慢して、スキル能力を上げて、成長して、人格完成させる。


例えば宮本武蔵も、やせ我慢修行して、人格完成させ、五輪書を晩年に書いたなど。

もっと遡れば、行基菩薩が、やせ我慢修行して、全国行脚して、人格完成して、全国に祭られてるなど。


この、やせ我慢修行からの人格完成物語が全く通用しなくなるのではないか。

しかし、通用しないのに、

おそらく日本人は、急に生き方国民性を変更できなくて、苦役を苦役のまま、いつまでも、50年でも100年でも続けてしまうのではないか。

苦しい登山を趣味として選ぶなど。

今ならば、ストイックな人格者として、やせ我慢修行の人は一目も二目も置かれるが、

そういうことがなくなり、代わりに、何か別の価値観が来るはずだ。


それが、何かは、まだ見えないが。

2000年続いた苦役、修行、教養小説物語が、終わり、エデンの園に、帰るかのような、AIユートピアに生きる新しい世代とは、どんなものなのか。物凄くは興味がわく。