JR西日本では、電車がホームに到着する直前に忙しい音楽が鳴るのだが、その音楽、どこがで似たフレーズを聞いたなと考えていた。ずっと。その到着音楽はド・ミ・ソド→ミソド、ミソド、ミソド、ミレミソド

と細かいリズムで鳴る。しかし、

このジングルは、基本的にはド・ミ・ソドでしかない。単なる上昇フレーズを少し複雑にしただけだ。


また、

リズムにも特徴があり、何か似てるな?と考えていたら、どうやらディズニーのエレクトリカルパレードのAメロそのままであった。


似すぎてる。

音楽は詰まらない。


何故、そういう装飾がありすぎると似てる曲なのに、別物と認識してしまうのか、それは、人間の巧みな心理的思い込みがあるからだ。


まさか、電車音楽とディズニー音楽が一緒とはだれも夢想だにしない。そういう強固な固定概念がある。そのうえ、電車が到着すると危険だから、音楽が何に似てるかなど、よほどの音楽好きでない限り、考えようともしないだろう。そういう先入観のおかげで、実は似てる曲なのに、全く別物であり、ひいては、音楽の世界が無限で豊かで、音階も無数にあるんだ、などと決めつけがちになる。

実際のところは、音楽は有限で、全く新しいコード進行やフレーズは極めてレアであり、音階は12しかない。→つまらなすぎる。





元々、

我々は、聞き古した音楽よりも目新しい、より美しい音楽を本能的に聞きたい生き物だ。そのため、少し違っていたり、聞いた場面が違いすぎていたり、飾り音符が多すぎたり、音色が違いすぎていたり、アレンジが効きすぎたりしてきたら、全く別の音楽と認識してしまう。つまり、日常に飽き飽きしている我々は、非日常をいつでも味わいたくてウズウズしている。そのため、ふとした瞬間、我を忘れた瞬間、他のことで気を取られており忙しい瞬間などに、不意を突かれて、少しでも洗練された音が聞こえてくると、全く別の、目新しい、今までに聞いたことのない音楽なんだ、と認識してしまいやすい。


この到着ジングルの場合も、よもや早朝出勤電車で、ディズニーが流れてくるなど、思いもよらないし、かなり、音色を本家ディズニーから変えてある。即ち、手が込んでいるのである。


しかし、言い換えれば、手が込んであるだけである。手間暇かけて、細工が細かいこと以外には、新しい音楽やフレーズは存在しようがない、つまり、見せかけだけ新しい音楽フレーズを、全く新しい音楽の一部だと、勢いやリズム音色で強弁するだけ。それしかないのが、音楽の世界というものだ。→つまりは、単純に詰まらない、それだけ。