コミュニケーションをもじり、「ノミニケーション」という言葉が横行している事実、そして、宴席では大人はお酒、子供は清涼飲料水。宴席では大人はお酒を飲み、楽しむものと位置づけられているようにも思えます。

もちろん中には、飲まない人、又はもともと全く飲めない人たちもいますが、そういう人たちでさえ、乾杯の時だけは「かたちだけ盃を口にもっていく」行為やノンアルコールビールなどを飲んでいるのは、やはり大人は宴席ではお酒をたしなむものであり、お酒なしでは宴席は楽しめないという「誤解」をしているのであり、やっぱり「お酒に騙されているのです。」

皆さん、そのように思えませんか?

よく見てみると、上述のようなかたちだけで実際はお酒を飲んでいない人たちも十分に宴席を楽しんでおりますし、酔っぱらって上機嫌になるのは結構なのかもしれませんが、それってその時だけ「ラりっている」というのはだれでも周知のことだと思います。

お酒というのはこのように少しづつ少しづつ長い年月をかけて、我々人類をだまし続け、巧妙に身体深く侵入し、操っているのです。

我々がお酒を操っているのではありません。

俺も二十歳を過ぎたころからは、完全に騙されていたようで、バイト先のお疲れビールだけでは飽き足らず(普通のこの年齢の若者はお疲れビールだけで済ませるものです)住んでいた最寄り駅近くのコンビニでお酒を買い、飲んでいたものです。

大分に帰省し、真夏の暑い季節には道路工事のアルバイトなんて言うとてつもなく汗をかくバイトをし、一日の作業を終え、喉がカラッカラで今すぐにでも清涼飲料水をがぶ飲みしそうな時でさえ、喉のカラッカラを我慢し、ビールにありつけるまで我慢をしていました。

こういう行為も完全にアルコールにコントロールされていたのです。

今から振り返ってみれば、二十を超えたばかりでこのような行為を始めていた俺はすでに呑み助街道を突っ走り、少なくとも当時は振り向くこと、つまりは自らの飲酒癖を見直すことなど全く考えてもみませんでした。

僅か、12年で内心は飲みたくなかったのが一日の肉体労働ドヘビー級である真夏の道路工事を終えての清涼飲料水すらをも無視して、ビールに走るというところまで変わっていったのです。

雅にアルコールの持つ魔性そのものなのです。