パリ2区、サンティエ地区

 

 サンティエ地区は私の親戚が最近、日本のテレビで取り上げられたということで、とても興味を持ったらしい。従って、今回、取り上げることにした。

 

 さて、サンティエでも古い界隈から話を進めようと思う。ナポレオンと言えば私の好きな人物だ、と言っても戦争に向かって読者を鼓舞するわけではないが、ナポレオンのエジプト遠征の勝利にちなんでカイロ(仏:ケール)、ナイル、アブキール、アレキサンドリアといったエジプトの地名がこのサンティエ地区の通りに付けられた。また、カイロ広場に面したところに1828年の建築物がある。その壁の上には、エジプトの女神ハトール*が見える。

 

 この広場に直結しているパサージュ・デュ・ケールは、1798年に建設され、ガラス屋根が印象的だが、パリの屋根付きパサージュの中では、最も古いものである。路幅が狭くて、途中、3つに枝分かれし、その長さはパリの中で最長とされている。余談になるが、ピラミッドの戦いでは、ナポレオンが兵士に「諸君、四千年の歴史が君たちを見下ろしているぞ!」と言って士気を上げたとされている。上記の初出はこのときの記録ではなくセントヘレナ島に流された後の回想録らしい。ナポレオンはピラミッドを見てその威容に感銘を受けたのであろうと想像する。

 

  

壁には、エジプトの女神ハトールの像 

 

 このサンティエ界隈は、燦爛としたパリのイメージと趣きを異にしているが、これもパリらしい風景の一つ


 地下鉄3号線のサンティエ駅の周辺では、19世紀は印刷業者が軒を並べ、20世紀は服飾のコピーブランドのメッカとなり、Naf-NafやKookaïの発祥地でもあるが、21世紀の今ではテクノロジー系の若い企業が集まり始めて「シリコン・サンティエ」と呼ばれるようになった。

 

 1980年代、サンティエ地区では繊維産業が全盛期を迎え、多くの衣料品メーカーや中小企業が、生産者から消費者まで、この場合は工房から店舗までだが、できるだけ早くという短絡的な工程を経て作られていた。繊維産業、卸売業者、流通業者、小規模テーラー工房、下請け業者、小売店などである。サンティエは昔から仕事を求めた移民が多い地区だった。それ故、アルメニア人やアシュケナージにより繊維業界が現れ、パキスタン人などはその界隈の運搬屋になった。繊維産業は一時隆盛を極めたが、1990年代に入ると中国から多量の中国人が流入し、前代の移民の労働力を担うようになり、次いで、パリ郊外のオーベルヴィリエに移転したので、サンティエの繊維産業が衰退した。その後、前述の「シリコン・サンティエ」という新しい産業に取って代わる。

 

 このサンティエ地区には、中世にまでさかのぼる波乱に満ちた歴史がある。

 

 「奇跡の宮廷」と呼ばれるものが、ケール通り、フォルジュ通り、コルデリー通り、テヴノ通り、ダミエット通り、レームール通りの間にあり、入口はサン・ソヴール通りに面していた。いわゆる無法地帯で、そこを住処としていた乞食たちの病気が、日暮れとともに「奇跡のように」消えていくことから、その名がついた。通りで物乞いをしている足の不自由な浮浪者たちは、夜になると包帯と松葉杖を外すことで奇跡的に健康を取り戻すのだ。

 

 17世紀、ルイ13世とルイ14世の治世下、最も恵まれない人々が奇跡の宮廷に集まったが、この地区には主に2種類のペテン師が住んでいた。「スリ」や「ひったくり」、又、怪我をしたふりをして施しを求める「アルゴティエ」である。パリで最も危険な場所と考えられていたので、兵士も役人も来なかった区域であり、神父やその他の聖職者は決してそこに行かなかった。なぜなら、極悪非道の盗賊やこういう場所につきものの娼婦も沢山いたからだ。この奇跡の宮廷には彼ら独自のトゥーン王(棟梁とも言える)がおり、住民だけが理解できる言葉が話されていた。しかし、18世紀末、この宮廷はあっけなく取り壊されてしまう。理由はパサージュが流行り、富裕層がやって来るようになったので、汚い物は他所にやる、という政策で追い出されたというのが、実情のようだ。

 

 パリにはいくつか「奇跡の宮廷」があったが、サンティエのものが最大級で、La Grande Cour des Miracles(奇跡の大宮廷)と呼ばれた。これはヴィクトル・ユーゴーが『ノートルダム・ド・パリ』に端的に描写しているが、そこは非常に大きく、悪臭を放ち、泥だらけで、不規則な袋小路があり、まったく舗装されていない」。又、「モントルグイユ通り、フィーユ・デュー修道院、ヌーヴ・サン・ソヴール通りに挟まれた、まるで別世界にあるような、街で最も造りが悪く、汚く、辺鄙な地区のひとつだ」と。

 

 当時、太陽王と言われるルイ14世は豪勢な生活を送るため、住民に重税を課した。圧政に苦しんだ人々はどん底まで落ち、それでも尚、生き抜いて、1789年のフランス革命の引き金になった。

 

繊維産業の盛んな頃のパサージュ・デュ・ケール Passage du Caire 

 

 フランスのパサージュ(仏:passage)はどのようなものなのか、又、どのように発展したかに言及しておこう。18世紀末以降、パリを中心に建造された商業空間で、ガラス屋根に覆われた「歩行者専用通路」の両側に商店が並んでいるものを言うが、高級商店街として隆盛した。サンティエ地区では、先に述べたパサージュ・デュ・ケール(1798年)が造られ、パサージュ・デ・パノラマ(1800年)が続き、特に王政復古後に、パサージュの建設が相次いだ。車の出入りを遮断し、人々を集めることを目的として、既存の建物と建物の間に屋根を付ける形で再開発された。多い時には100を数えたパサージュだったが、時代遅れのものとされ衰退していった。現在は十数箇所を残すのみとなっている。

 

 尚、パトリック・ブランの作品「オアシスアブキール」の緑の壁は、新たな街のシンボルとなっている。場所はサンティエ駅から歩いて数分のところ(L'oasis d'Aboukir. 83 rue d'Aboukir 75002 Paris)、また、モントルグイユ通りは人気スポットで、カフェや飲食店が集まる。この通りの真ん中辺りにパリ最古のパティスリー(1730年創業)があり、逸品「ババ」が味わえる。

 

オアシスアブキール 垂直庭園とも呼ばれる

 

*ハトール ハトホル、ハトル(Hathor)とも言う。古代エジプト神話の愛と美の女神。太陽神ラーを父に持つ。