【二分したユダヤ人が東に向かった過程】 
 
北イスラエル王国(10支族)紀元前722年 
(多神教の影響を受けたグループ) 
 
南ユダ王国(2支族)紀元前586年 
(厳格な一神教を守ったグループ) 
 
【古代日本に伝わったキリスト教
・アタナシウス・・ 一神教(三位一体説)
→・カトリック・正教会 

・ネストリウス派・・多神教(景教徒)
→弓月国(中央アジア)ー 秦氏(弓月君)
→倭国(日本) 

 
【Google Earthで辿る軌跡】 

エルサレムからアッシリアに滅ぼされてその後の足取りは不明だが、
東に広がっていた10支族のうちの一つが、
中央アジアに移動してくる
(ウズベキスタン・タジギスタン・キルギス) 

弓月国・・現在の伊寧市(グルジャ)
現在中国新疆ウイグル自治区あったとされる。 
 北にはバルハシ湖(現カザフスタン)があり、 
 南にはタカラマカン砂漠(新疆ウイグル自治区) 
東にはアルタイ山脈があり、
鉄の産地で弓月国では製鉄(武器や農機具)を
作るのが盛んであった。 

 
19世紀北からロシア移入、
カザフスタンを取り込み、
新疆ウイグルを統治していた清王朝との間で、
国境が結ばれ、
弓月国のあった場所は東西に分割された。
現在は中国側にある。 
ユダヤ人はこの場所を離れて、
東へ移動する。 
(一説によると、シルクロードを作るのに、この辺りの民族が加勢されていたので、それを嫌がってその土地を離れたか?) 
 
しかし、厳しい旅路となり、ゴビ砂漠横断では、その過酷さゆえ約40%の者が亡くなったとされる。 
生き残った人々も疲れ果ててしばらく中国の開封市に留まり、多くのコミュニティーを作った。 
しばらくその地に定住して、エルサレムに見立てた神殿なども造った。 
 その後に、朝鮮半島 南西端の百済(くだら)まで来て、倭国(日本)に渡ろうとしたところ、
新羅(しらぎ)に邪魔されて、倭国の応神天皇に助けを求め、兵隊を送り瀬戸内辺りを通って、秦氏達は大阪湾に到着した。 

 
【秦氏が伝えた現代に残る技術】 
 
現在の大阪は、太古の昔、ほとんどが遠浅の海で、水害も多かった。 
そこで、秦氏達の農耕技術(鉄製農耕具)を作って、干拓していった。 
そして、緑豊かな耕地に生まれ変わった。 
 
川を引き、干拓して余った土や泥を積み上げて山となり、干拓技術を使って古墳に使った。 
後に、干拓してくれた王様や大王、天皇を葬る記念碑としての古墳となった。(近年の解釈) 
日本が誇る、日本の巨大な「前方後円墳」は、秦氏がもたらしたテクノロジーに他ならない。 
 
機織りという名は、秦氏がもたらしたから・・ 
 
神社の鳥居の赤く塗られる神社は、八幡神社などは、秦氏の関係で、
「八」っていう文字は、ヘブライ語で「ヤハウェ」と意味にとらえることもできる。 
 
ヤハウェ【Yahweh】旧約聖書の神の名。
ユダヤ教では直接名を呼ぶのは恐れ多く聖四文字「YHWH」としている。 
 
稲荷とは「INARI」「INRI」はキリストが十字架の刑になった時の罪状書きの頭文字 
(ラテン語:IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)である。 
 日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス(ローマの王と名乗った反逆罪の意)」と訳される。 
 
聖徳太子のブレーン(有職者・顧問)になったのが、秦氏で「秦河勝」 
 
平安京は「平和の都」ヘブライ語で、「エルシャローム」エルサレムと音的に読めないこともない。 
こんな偶然が重なるとも思えない。