十六歳のアメリカ 1977年 夏 三四、シルビア 139 | 六月の虫のブログ

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 翌朝早く、ベイ・シティーを離れ、北上した。その日は、ヒューロン湖沖約六マイルのところに浮かぶ島、ボイス・ブランク島 (Bois Blanc Island) に渡り、一日過ごすことになっていた。ボクたちは、シェボイガン (Cheboygan) からフェリーでボイス・ブランク島に到着した。ボイス・ブランク島には自動車が一台もないとのことで、非常に静かな島だった。みんなでランチを食べた後、夕方まで自由時間となった。ボクは、ラモーン、ロザリオ、ジョン・ギャフ、オーストラリアのピーター、ウエンディー、ジュディー、そしてニュージーランドのクリスティン達と自転車をレンタルして島を一周することにした。島一周が約十五マイル(二十四キロメートル)なので夕方までには十分一周できる。途中で砲台のある丘や灯台の下で休憩しながら、サイクリングを楽しんだ。
 オーストラリア人の男の子たち、ジョン・ギャフやピーターもオーストラリアのアクセントの英語を喋る。特にピーターの訛りは強く、何を言っているのか判らないこともあった。彼の英語の場合、AがIの発音になって、「ベースボール・ゲーム」が「バイスボール・ガイム」になるとか単純な違いでなく、別の言語を喋っているような感じだった。ジョンもピーターの訛りはすごいと言っていた。ジョンはオーストラリアのど真ん中にある町、アリス・スプリングス (Alice Springs) 出身で、ピーターはクインズランド (Queensland) の内陸の町、ロングリーチ (Longreach) 出身だった。一方、ウエンディーやジュディーの英語には、オーストラリア訛りがなかった。ジュディーは、アメリカに来て一ケ月で自然に訛りがとれたと言っていた。ピーターは、アメリカ英語に馴染んでしまっている彼女たちのことをオーストラリア人であることの誇りを捨てていると言ってからかった。ジュディーに言わせると、ピーターは新しい環境に順応する能力が乏しいとのことだった。確かに男の子の方が言葉に関しては、頑固かもしれない。関西人が東京に行くと、女の子は比較的短期間で東京弁を話すようになるが、男の子は関西弁を誇りに思って喋り続けている場合が多い。ピーターやジュディーも、これと一緒だなと思った。カーシャウ家に数年前にホームステイしていたオーストラリアからの交換留学生も、発音の違いで苦労したらしい。彼の名前は、「ジョン・パイジ」 (John Page) と言い、アメリカ風に発音すると「ジョン・ペイジ」となる。彼が学校の先生たちに、何度彼の名前は「パイジ」だと言っても、彼らは彼を「ペイジ」と呼んだらしい。単語の発音の違いは仕方ないが、自分の名前の読み方までアメリカ流を通されるのは、あまり気分のいいものでない。

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                  左端がピーター