二、出発は、羽田から (A Flight from Haneda)
八月一八日、ボクとの交換留学でアメリカから来る女の子を駅まで迎えに行った。彼女は、ボクの実家にホームステイする予定だった。ボクの実家は、京都の丹後にあるが、この田舎に外国人を迎えることは、画期的なことだった。英語というものに無縁の我が家に滞在するわけだから、彼女も我が家族も苦労するだろうと想像はしたが、出発の前々日ということで、ボクは両者に幸運を祈るしかなかった。 彼女も、今回が海外初体験ということでボクも少し安心した。
唯一、アメリカからきた彼女にボクが教えたことは、トイレの仕方だ。和式のトイレに妹をまたがせて、彼女に座り方を伝授したのだ。彼女はそれくらいわかるわよという感じで、笑いながらうなずいた。
夕食はすき焼きで朝食はベーコン、目玉焼き、トーストに野菜サラダ、彼女に気を使っているのか、普段よりご馳走だった。後に彼女に聞いたのだが、朝から野菜サラダを食べるということに驚いたとのこと。アメリカでは朝から生野菜は食べないのだ。
いよいよ出発の日が来た。おばあちゃんは、アメリカにはスリが多いからと心配している。ボクに不安は、まったくない。それより、どうしたらアメリカに規定の一年以上いられるかを、一生懸命考えていた。行く前から、アメリカのことを好きになることを確信していたのだ。
朝三時頃、親父の車で家を出た。家族全員、眠い目をこすりながらの見送りだ。大阪の伊丹空港には、関西地区から留学する人達が集合していた。以前に研修で一緒だった人もいた。皆、賢そうな顔をしているし、何よりスーツが決まっていた。女の子も生意気そうな奴ばかりだ。ボクは、憧れのジョン・レノン張りの長髪に、ブルーの夏物スーツという不気味な格好で皆の輪に入って行き、研修で一緒だった福井県の坂井君に話しかけた。彼もそうだが、ここに集まっている人達は外国人慣れしている人が多かった。千佳子という一つ年上の女の子は、小さい頃両親と海外で生活したことがあるらしく、名札には ”CHICAGO”と記し、アメリカ人が付けたあだ名だと言って自慢していた。彼女は美人で、大人っぽく、ボクとは異なる次元の人だと痛感した。後で判ったことだが、関西地区で選ばれた留学生は、すべてロータリー・クラブのメンバー、つまり金持ちの子供ばかりだ。このなかで海外が初めてなのは、ボク一人だけだった。
羽田空港で、全国から集まった留学生と合流した。皆賢そうな顔はしているが、雰囲気は素朴で少し安心感を与えるものだった。ただ、皆に共通していることは、皆、非常に積極的だということだ。積極性がないと、留学に向かないのかもしれない。そこで、ボクも積極的に、一人の女の子に話しかけた。おかっぱ頭の素朴な子で、北海道出身だった。彼女も、今回が海外初体験ということでボクも少し安心した。
1970年代の羽田国際空港(フリー画像より)