静岡市清水区由比の農家民宿です。



8月3日 夕方からがんセンターで、先生方や看護師さん、ソーシャルワーカーの皆さんとの話し合いがありました。


先月29日に、どうも咳や痰が出ていて辛そうだったのと、酸素濃度が90を切ったので、がんセンターに電話。

いつもの、

連れてきてください。

の言葉に安心して、静岡県立がんセンターへ。


胸水が溜まっているので、抜こう。

大丈夫、僕がやるから、失敗しないから。


いつもの優しい先生の姿❣️


おん歳94歳の父


絶大なる信頼を先生に寄せています。


看護師さんの手際の良さにも敬服❣️


準備が整うと先生が来てくださり、私も背中を支えるお手伝い。


背中に針を刺してから20分

胸水が抜けてきました。


父は、だいぶ楽になった、流石だなあ❣️

この病院は凄いなあ❣️

と、いつものお決まりの言葉。


本当にがんセンターの方々のおかげで、父は命拾いをしました。

92歳で胃癌、食道癌

半年後 肝臓に転移

この時点で、一応覚悟


しかし、癌が消えてきました。

それから2年。デーサービスに楽しく通い、2人目のひ孫の誕生を喜び、穏やかな日々❣️


ただ足腰が弱くなり、車椅子生活に。

このあたりから、家での生活が大変に。


施設に4日泊まり家に2日泊まるという

生活スタイルに


それからちょうど半年になります。


8月3日は、退院の話でした。29日から、まだ5日後。回復に驚き‼️

というか、29日も実は帰宅可能でしたが、心配だから、入院させて欲しいと頼みました。


良くなりましたよと、皆さんの声、

でも、高齢ですから、急変もありますよ

と先生の声。


この声は余り耳に残らず。


退院後どうするかの話し合い、部屋も個室から2人部屋に。


部屋が変わると起こるらしい、混乱

ここは北海道か❓え〜⁉️

娘と韓国旅行に行く❗️え〜⁉️


しっかりしてよ‼️と叫んだら、

なんだ恵か!

退院できるからね。良かったね。ただ、家の隣の施設には、入れないみたいだから、どうする?

癌患者は、入所は難しいらしい。父は認知もなく、癌による痛みもないのですが。

申し込んで5ヶ月。

他の施設を探すしかないみたいです。


そうか、入れないか。困ったなあ。

どこでもいいよ。遠いから気をつけて帰れよ

と大きな声で何度も言っていました。

これが最後の会話になりました。


5日金曜日、洗濯物を持っていく日

今までの施設の方から、 

こちらでみますよ。退院後は疲れるし、寝ていたばかりだと車椅子に座るのも大変だから。よくなるまで、延泊してください。


本当に有難い❣️


コロナ禍で面会禁止なので、手紙にその旨を書いて、父に渡してもらいました。


さて、退院はいつかなあ?8日の月曜日あたりかなあ。と思っていたところに、がんセンターから電話が。


退院の日程だとおもったのは、わずか、5秒。


意識レベルが朝から低いので、来てください。


180度転換の話にびっくりしました。

先生の

急変する恐れ 

が正しく現実になりました。


いろいろあった日でしたが、急いで、がんセンターへ。最初に先生から説明が。


昨日までは意識もあり、プリンを食べたいと言って、プリンも食べたとか。珍しい


ご飯も3日の時まで完食、驚き


呼吸はあらいというよりは、いつものいびきをかきながらの休んでいる姿の父。ただ意識は名前を呼んでもなし。回復の見込み厳しいが、万が一ということもあるからと、励ましていただきました。


コロナ禍でも、付き添いが許可されました。重篤は間違いない。

でも、どうしても一度は家にもどらなければならないので、今夜はお願いしますと言って、病院を後に。

夕飯を食べながら、病院に残らなかったことを後悔していたら、がんセンターから電話。


え!もしかして 最悪な状況⁉️

と思いきや、

看護師さんが、お節介かもしれませんが、付き添いに来ませんか?最期に間に合わないことがあると後悔するから、今から来たら?


本当に有難い話でした。


直ぐに行きました。ただし、1人のみの付き添い


主人に送ってもらいがんセンターへ。


父の呼吸は、あまり変わらず。 

意識レベルも変わらず。


何日泊まり込むかはわからないけれど、今夜は眠れないから簡易ベッドは要らないと言って、椅子に。

でもこの椅子リクライニングができる立派な椅子


夜中に、呼吸が少しおとなしくなり、早朝4時、誰にも会わずに逝く父はかわいそうだと思い、携帯のラインビデオで家族とつなぎ、様子をみてもらいました。

ただ母はおん歳90歳、携帯電話は分からず。


朝になり、面会を要請。

とにかくコロナ禍 なかなか難しい。

しかし、重篤である事で、一回3人で、一日5人までの決まりの中で行うことに。

有難い。母、孫、主人が面会可能に。


昼過ぎまで主人が残ってくれましたが、細い息ながら、リズム良くされていたので、主人は帰宅。


しかし、看護師さんの

着せたい洋服を持ってきてー‼️間に合わないかも‼️の声に、いよいよ最期だと実感。

主人が家に着くか着かないかの間に、息がさらにゆっくりと。

孫と、服を持った主人ががんセンターへ。


呼びかけをたくさんして、

ありがとうをたくさん言って。

お疲れ様をたくさん言って。


お別れがきました。


家族の中では私だけが最期の看取り。


病院も施設も私と一緒に行きました。

由比の家でも、生活できました。

周りの人達のおかげで、楽しい時間を過ごさせていただきました。特に家に連れてくるように言い、着替えや、移動などを手伝ってくれた主人、そして帰宅時、車椅子に移動させてくれた大石さん、感謝しています。


本当に安らかな最期でした。

がんセンターから家に連れてくる時、先生方、看護師の皆さん、沢山の方々が父を見送ってくださいました。


特にがんセンターの先生。2年6ヶ月にわたり、親身に本当に優しく接してくださいました。6月のCT検査でも、癌はみつかりませんでした。30日間の放射線、週一度の抗がん剤。

2ヶ月ごからは、抗がん剤を服用。

癌を見つけてくださった病院では、高齢だから手術はできない。運が悪いと思って、諦めてくださいと言われたのですが、がんセンターでは、頑張ってみますか?薬が合うか調べますと言ってくださってから2年6ヶ月。こんなに長く生きる事が出来ました。医療技術や患者への向き合いかたなど、私たち家族にとって、最高の場でした。


がんセンターに行くバイパスの桜並木を、3年連続して、父と堪能しました。来年も見ようねと話したのが、昨日のようです。



本当に、先生にお会いでき、がんセンターで最期を迎えられ、父は幸せ者です。

また、初めてお会いする看護師さんばかりでしたが、皆さん優しく、なんでも話せそうで、悲しいのに、笑いがおこるくらい、温かい雰囲気の中で、父を見送ってくださいました。

私には衝撃的なドラマの一日でした。


しかし、凄いドラマがさらに用意されていました


生前父が家にいた時、父の荷物をごそごそとあさりました。数珠と高祖尊影が出てきました。


おじいちゃん、これどうする?

特に高祖尊影?


すると、俺が死んでから処分してくれ。


さあて、この尊影、どうしたものか⁉️


さらに父は、通夜は要らない、戒名も良くなくていいが遺言。


さあて、どうしたものか⁉️


菩提寺 毘沙門天祭で有名な妙法寺の住職さんのところへ。


その日はこんな天気。


戒名は、弟よりちょっと上に。

通夜は要りません は、住職さんにそんなことはできないと言われて、素直に承諾。


尊影は、なんと昭和6年に入手したもの。包み紙とサイズが合わないのが不思議でしたが、確かに年季の入った代物。実に90年前‼️

どうも、誰かが装丁し、その裏に文字を書いたようです。


住職さんが預かるとおっしゃってくださり、それから父の生い立ちの話に。


実は祖父は、山梨県の小さな村にあるお寺の住職でした。父親である祖父が早くに亡くなったため、祖母、父、叔母たちは、寺を出る事に。


父は祖父と棚経に出かけたこともあり、日蓮宗を信じ、身延山久遠寺の奥の院まで2年ごとに登っていました。


住職さんも、気さくにお父さんなんて呼んでくださっていて、今年のお盆の棚経の時も、

お父さんは元気?

と、聞いてくださったばかりでした。


急変したこと、最期まで弱音を言わなかったこと、認知もなく、最期まで、しっかりしていた事

お墓参りも、元気な時は毎週していた事。

そんな父の姿を私も思い出しながら、懐かしい時間に。

私からのお願いとして、葬儀はお寺でしたいと。お盆が近くで、お忙しいのに、住職さんも会館の方も快く受け入れてくださいました。そのかわり、長い一日になりそうです。


通夜、密葬、出棺、本葬、納骨


通夜、要らないと言っても、やはり、旅立ちの大切な儀式。


住職さんのお話が心に沁みました。

その時に、私は良く理解できませんでしたが、日蓮聖人の弟子として、旅立ちをすると。

日蓮宗の方はみな、日蓮聖人の弟子なんだという理解でした。しかし、戒名に日が入っていました


それがどういうことか、本葬儀で理解できました


棺の中に、白い着物を掛けました。そこには、いろいろな事が書かれていて、これを着せて旅立ちをさせるよう指示があったそうです。


それは、父を僧侶の位にあげてくださっての見送りでした。

参列していた親族は、みな、びっくり‼️

私は直ぐに叔母に、

お兄ちゃんが僧侶になったよ

と伝えました。


会館の方も、

僧侶の葬儀は初めてです。普通僧侶の葬儀は、自分達だけでやり、私たちは、呼ばれないですとのこと。



父の遺影が笑っているように見えました。気恥ずかしいのでしょう。


もう少し頑張れるかなあと思いましたが、ここまで。

94歳まで生きたいなあを実現して、

最期を一番信頼しているがんセンターで迎えられ

毎週通ったお寺で葬儀をしてもらえて。有難い。


父の人生は、大変なことばかりでした。

辛いことばかりでした。

でも、最期のこの出来事全てが、父の生きた証だと思います。


父を助けてくださった皆さんに心より感謝申し上げます。ありがとうございました😊

特にがんセンターの皆さん、施設の皆さん、お世話になりました。


これが最後の家族写真です。

4世代集合です。