純犬の目指せ日本語教師

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 折からの我が家の「チャングムの誓い」ブームで、重い腰を上げて最近韓国語の勉強をはじめたのだが、今日はややこしい助数詞が出てきて、日本語と同じように色々な数え方があるのを知った。ひとつ、ふたつといった数え方に、ハナとかアホッとかあるのだが、それにさらに歳、枚、冊、本などのように助数詞が付く。ちょっとややこしい。覚えるまで何度もやるしかないのだろうが、ここでふと思った。これを覚えなくてはならない外国人の人たちは、どんな思いでその時間の授業をうけるのであろうか。

 

 そこで、といってはなんだが、今日うちの奥さんに「犬はなんて数える?」と、聞いたところ、「中型犬以上は、~頭かなぁ」と言った。以前養成講座の講義で、これが話題になり、そのときは、「人間よりも大きいのは基本的に~頭」と、言われた。よく、ペットと家畜の違いというようなことを思うようだが、最近はちょっと思わず「なんだ」と言ってしまうようなものまでペットにしている人がいるので、線引きも難しいらしい。もっと単純に考えると要は、基準が人間で、それより小さければ「~匹」、大きければ「~頭」なのだそうだ。

 

 ただ、そうとばかりも言っていられないのが、日本語のややこしいところで、また勉強するものにとっては楽しいところでもある。この例は、捉え方で言葉の選択に「揺れ」が出てくる典型である。その点を強調して、奥さんには一応犬は「~匹」だと言った。ただ、絶対そうとも言い切れない。最近は「~匹」というにはちょっとあまりにも人間より大きそうなのも、ご主人さまを引き連れて散歩しているような姿をよく目にするようになったのも確かである。

 

 この件に関しては奥さん、かなり納得いかなかったらしく、うちの愛猫たちのえさを買った帰りに本屋に立ち寄り、国語辞典を調べていた。そして数分後、勝ち誇ったような顔で「犬」の項目を指し示し、~匹、~頭と数えることもある というような記述を見せてくれた。と、いうことで犬は両方言えます。ただ、但し書きがあるので、そこの判断は読者にお任せします。


 余談だが、奥さんに「じゃあ、蛙はなんて数える」と訊いたら、「~ぴょこだ」と答えておりました。奥さんそれって、早口言葉じゃないんですか?

 台風7号の関東接近のニュースのおかげで、昨日は早々と休講が決まった。その旨を伝えるメールが仲間の一人から入り、それをその他のメアドを知っている人たちに送ったのだが、そういう時に限って携帯やらの連絡手段を忘れてしまう人が一人や二人いるものだ。そういった場合、割とよく自分がそうなっていたのだが、昨日は幸いならずに済んだ。


 だがやはり一人、夜にメールをくれた人がいた。その人はうちに携帯を忘れてしまい、わざわざ出向いてしまったそうである。当然講義はないのを知り、仕方がないので図書館にでも行こうと思ったが、ここでも台風のため17時半で閉まっていたそうである。やるせないだろうなあ。雨がひどくなかったのでそれがせめてもの救いだった、と書いてあった。


 雨がひどくないから、講義に行ったのではないか。なのに、講義が休みでひどくない雨に向かって、それが良かったなんて、なんだかあべこべのような気がする。前向きな人である。それとも、悔し紛れだろうか。色々かんぐると、ちょっとたのしかったりする。



 

 残念ながら、今回で直接法の講義は終了。とても密度の濃い授業だった。養成講座では授業を教えるといった実践的な話を聞く機会が少なく、さらには現場での経験をフィードバックするというのは、数えるほどしかない。教える項目を取り上げて、実際どのように教えるかを具体例を見せながら見せてもらえたので、すごく参考になった。だがはたして、講義全ての内容を自分が実践できるかとなると、これは経験積むしかないか。


 前回講義内容については結構書いたので、少し話題を変えるとしよう。

 

 どの授業でもわりとそうだが、一番前の席に座っているからか、よく講師に「ではやってみてください」といわれてしまう。まあ、自分でも話を聴いているとできそうな気になっているので、勇猛果敢に黒板の前に立つのだが、いざやってみるとなるとこれがものの見事にこけてしまう。所詮、その気になっているだけなので全然分かっていないのだが、座って講義を聴いていると、そんなの簡単だよとおもってしまうのである。何度撃沈したことか。


 でも、懲りずに前に立つ。これにはいくつか理由がある。2年目の最後の方の講義では、実際にカリキュラムを作って模擬授業をするらしい。なので、あえて出来もしない文法説明やら会話の誘導など結構自ら進んで前にでてやってみている。練習だと思っているのだ。そのときまでに、一度も教壇側からみんなを見渡すことなくやるよりは、明らかに楽になっているはずである。慣れていないと、結構しんどい。講義を通して、初めて前に立ったときは、人前に立つのがそれほど苦でもないのだが、やはりかなりどぎまぎした。


 どぎまぎすると、まずのどが詰まってうまく声が出なくなる。これは、教師にとって致命的だ。なにせ、言葉を教える人が、蚊の鳴くような声じゃ務まらない。特に、これはどの講師も言うことだが、最初の授業はどんなに熟練の教師でも、怖いらしい。どのような人たちが集まっているか分からない中、授業を進めていかなければならないのである。ましてや、中には日本語のにの字も知らないような人たちが、目の前に現れるのはどんな人物なのか、向こうも警戒しているのである。安心してもらうには、かなり気を使うことだと思う。


 昨年度後半に、実際小学校で英語の非常勤講師をやったので、これは実感としてもっている。1年生から6年生まで全九クラス、さらには職員室でもやはり最初の顔合わせがあるので、これにはものすごく気を使った。やはり、社会生活上、なるべく相手には悪い印象をもってもらいたくないので、相手が大人だろうが子供だろうが、初対面は何かと緊張が伴う。これが、一度きりの出会いでお互い付き合いがそれ以上つづかないのであれば、さほどもでもないだろうが、人は割と第一印象に左右されがちであることも、否めない。となると、印象をよく持ってもらいたいのは、致し方ないことである。


 閑話休題。ということで、人前でにこやかに大きな声で話すことは、慣れが必要なのである。そのために

毎回せっせと、機会を見つけては立つようにしている。同時に、ほかの人にももっと前に出て欲しいと思う。


 人の振り見てわが振り直せではないが、間違いをするというのは、実にいい勉強法だと思っている。特に、養成講座のような場所では、出来ないのが当たり前なので、あっているかどうかを気にしすぎていては進歩は望めない。ある意味、教習所のようなところなので、どんどん間違えてそれを正されたほうが、身につきやすいと思う。分かっていると思うことは、結構危険である。なぜなら、それ以上気にしないからだ。ところが間違えて、そこを指摘されると盲点に目を向けることができるのである。特に、日本語の場合、普段何も考えずに使えているから、改めて考えるとうまく口に言い表せないことのほうが多い。


 この、間違いを指摘されんがために、わざわざ前に立つのである。人間は基本的に忘れる生き物なので、前にやったことをいとも簡単に、忘却のかなたへと追いやってしまうのである。ああ、そうか、おっとそうっだった、あれそうだったっけ、を定着するまで間違えて、やっと覚えることができる。なんとも厄介だが、今のところ記憶をよくする特効薬は手に入ってないので、日々間違い続けるのである。

 韓国語は、勉強しようと思っている言語のひとつである。昨今のブームに乗ってというわけではないが、韓国映画に良い作品がたくさんあり、できれば少しでも言語で理解できたらと思うからである。映画が好きな理由のひとつに、作られた国の文化や価値観、時代の空気などが映像というメディアとともに、豊富に吸収できるからである。

 今日の講義で、全世界の日本語学習者人口を占める割合で韓国人がトップを占めると知った。以前は経済的観点から日本語を学ぶ人が多かったらしいが、今は文化的興味、特にアニメや漫画、ファッションといった文化的興味から、日本語を学ぶ人が多いらしい。興味深い現象だと思う。時代は、常に変わっているということか。

 本日の講義は、正直言うと面白みのある授業ではなかった。休憩時間の実際の経験談の方が、面白方くらいである。やはり、直接の問題意識としての、日本語と韓国語の違いを持つにいたっていないからだろう。またしても勉強不足というか、、知識不足を痛感してしまった。

 講義の中で、いくつか興味深い点があった。ひとつは、韓国人の日本語に対する、「日本語は難しくない」という認識と、言語的共通点が多いがために日本語を理解する上でかえって邪魔になっているという点である。何故難しくないと思うようになったのかは定かではないが、日本語を一生懸命勉強することはかっこいいことではない、と言う時代があったらしい。文法的には、似ている部分の違いを認識するのに、混乱しやすいということである。

 ここは教える側も、学ぶ側もジレンマになるのだろう。逆に言うと、意識させずに教える事、学ぶことができれば理解しやすくなるということか。実際に教えるとなると、簡単にはいかないだろうが。

 

 待ちに待った、スターウォーズ最終章、観てきました。 オリジナル日本公開から数えること、27年。ともに歩んできました。ということは、自分もずい分と年を重ねてきたということ。わを。それはさておき。

 今回は、アナキンがダークサイドに落ちて、ダース・ヴェイダーになるまでの過程を描く作品と公言されてたわけで、となると「如何に」というところが気になるところで。そのために、前もって映画に関する情報、特にストーリーにはできるだけ触れないようにしてきました。なんせ、ジェダイの帰還は、観る前にネタを知ってしまってものすごく落胆してしまった苦い経験があるもので、それ以来できるだけ見たい映画のストーリーのネタばれには、神経使ってます。近頃は、公開時期が以前に比べて本国とのタイムラグがすくなくなってきてるけど、(中には、マトリックスや宇宙戦争みたいに日本が世界最速公開なんてのもあります)インターネットなんかでは、どんどん情報漏れまくってたりもするので、避けて通れないです。

 とにかく、今回はアナキンの凋落と、メイス・ウンドゥーの最期が、どのように描かれるのかが、エピソード2を観終った瞬間からのたのしみでした。どれも、期待以上のフィナーレ。スターウォーズのオフィシャルファンクラブでこの作品が、エピソード5,エピソード4についで3位になったのもうなずけます。全てがエモーショナルにすすんで行き、分っていながらもアナキンにはダークサイドに行かないでくれと、思わずにはいられませんでした。観ていない人のためにストーリーは書かないでおきますが、とにかくシリーズ中で一番暗い話です。しかも、ものすごく観ていて楽しかったです。早く、DVDほしいなあ。全作通して見る日が待ち遠しいです。

 この作品を観にいく前に、トリロジーボックスを奥さんと観たんだけど、奥さんはエピソード6を観てアナキンがかわいそうと、一人むせび泣いてました。ものすごく素直にこの作品の本質に入っていけている姿を見て、とてもうらやましくなりました。そういいながら、3を観ながら劇場では、自分がむせび泣いてましたが・・・よく感極まって泣くので、奥さんにあきれられます。彼女も人のこと言えませんけど。

 これからも、スターウォーズサーがはテレビシリーズや、3D作品として劇場公開されるとか期待がやみませんが、とりあえずはひとつ区切りがついて、なんだかうれしいやら気が抜けたやらの複雑な感情に一人浸ってます。


 この春から、茗荷谷にある拓殖大学の「日本語教師養成講座」に通っている。細かい内容はまた別の機会に書こうと思うが、今回は今日の授業について。


 外国語を、それ以外の国の言葉を話す人たちに教える方法は、実にいろいろあるらしい。らしい、というのも勉強不足でほかにどのような方法があるのか、復習してないのでここに挙げられない。そのうちそんな話もできるようになると思うが、今日は直接指導法と言う講義を受けてきたので、その話をしようと思う。


 直接指導法、とは何か。習得目標となる言語を、その言語を使って指導する方法である。例えば、日本語を学ぶ人には日本語で、ということである。


 これが、相当難しい。何が難しいか。日本語を母国語として話す私たちが、日本語の全く理解できない人に「私」、「あなた」さえ教えるのに四苦八苦してしまうのである。日本語を一番理解していないのは、なにを隠そう私たち母語話者である。理解というのは、文法項目を論理だてて説明できるかできないかという意味でである。例えば、「行きましょう」と「行きませんか」の違いと使い分けを説明できるだろうか。ちなみに私はできませんでした。日本語を母語として持たない非母語話者にこれを日本語で教えて、なおかつ使いこなせるようにする、というようなことを日本語教師は毎日しているそうである。ちょっと、くらくらしてくる。なにせ、そんな微妙なニュアンスをいちいち、ああでもないこうでもないと考えながら話す日本語母語話者は、日本語教師ぐらいしかいないのである。それを日本語文法として、ありとあらゆる表現から単語、語彙、はてはその歴史まで知ってなくてはならないのが、日本語教師である。なぜ、こんな地味なことに興味を持ってしまったのだろう。


 前回の講義で、直説法がどのようなものかということを韓国語を使って実践してくれた。わずかな時間で出席していた生徒のほとんどが、基本的な会話を覚えてしまった。教科書も使わずに、である。すぐに忘れてしまっていたら特にどうということもないだろうが、一週間経った今日も基本的なことは、だいたい覚えていたのである。


 これには正直驚いてしまった。私は個人の英会話講師もしているが、何ヶ月も教えているのに、なかなか生徒の上達が見えてこない人が多い。なかには、会話練習をすると驚くほど見事な発音とイントネーションでやり取りができるのに、フリートークになると、とたんに全く言葉が出てこなくなる子もいる。根本的に、教え方に何かが足りない気がしていたが、 この講義のおかげで少し見えてきた気がする。具体的には、どうということを書くと長くなりそうなので、結果が出たらここで報告しようと思う。


 直説法にはさまざまな要素がからんでくるが、この先生は、誘導法というテクニックにおいて、実に見事な手腕を見せる。会話をとおして、教える課題を生徒から自然と口をついて出させるのである。彼自身、これが一番「エレガント」な教え方だといっていた。余計な時間を一切かけずにすんなりとおぼえさせてしまうのである。しかし、われわれ生徒たちが、それをやろうとしても、さっぱりである。ひとつには、これは根本的なことだが、あまりにも教えるためのデータベースがなさ過ぎる。用例用法から、会話のシチュエーションまでありとあらゆる引き出しがなければ、対処できない。もうひとつには、どこで何を出すかというタクティクスがなければ、教わる側は混乱するだけだということである。


 実際、英会話の生徒の一人に試しにやってみたが、生徒の理解度の認識を誤って丸々20分程度無駄な時間を使ってしまった。ただ、やみくもに教えていればいいわけでもないことは分かっているつもりだが、実践となると話は別である。ただ、どの先生も必ず言うのが、はじめからうまくいっていたわけではなかったということだ。経験や場数で色々とその人なりの方法論というものが確立していくらしい。それを聞くと少々ほっとするが、ま、できるだけ早くうまく教えられるようになりたいものだ。


 あと二回彼の講義があるが、楽しみである。とても、4週間でそのテクニックをマスターできるわけはないが、少しでも将来の役に立てられるようにしたい。


 余談だが、この講座を担当している別の先生が、日本語なるほど塾に今月出演なさっている。これも、とても興味深い内容で、残りの回も楽しみである。