ディ・カプア が亡くなった日
10月3日
ディ・カプア 1865年3月12日 ~ 1917年10月3日
エドゥアルド・ディ・カプア
エドゥアルド・ディ・カプア(伊語:Eduardo Di Capua、1865年3月12日 - 1917年10月3日)は、イタリアの作曲家。歌手。ナポリ出身。wikipedia
エドゥアルド・ディ・カプア
Eduardo Di Capua 1865-1917
■名歌曲「オー・ソレ・ミオ」の作曲者
エドゥアルド・ディ・カプアは1865年3月12日、ナポリで生まれた。 ディ・カプアは音楽教育の基礎を父から学び、ナポリ音楽院へ進む。18歳頃から作曲を始め、ナポリ周辺の劇場やレストランで歌手として活動しながら作曲活動も続けていた。
「オー・ソレ・ミオ」は父のバンドと一緒にロシアのオデッサにツアーで滞在している間に作曲したといわれている。
ツアーから帰国後、この曲をピエディグロッタ音楽祭に出品したところ、見事に第2位に選ばれました。「オー・ソレ・ミオ」は観客の心を掴み、優勝曲を凌ぐ世界的な大ヒットとなったのである。
大ヒットを記録した「オー・ソレ・ミオ」だが、実際に作曲者であるディ・カプアと作詞者であるカプッロはその経済的恩恵をほとんど受けていません。
二人はピエディグロッタ音楽祭のスポンサーであるBideri出版社に、この曲の権利を25リラで売却してしまったからだ。
■あらたに第二の作曲者が現れた!?
「オー・ソレ・ミオ」は1898年に発表されたイタリア歌曲の代表的な曲です。ナポリ出身のエドゥアルド・ディ・カプアが作曲者であるとされてきたが、2002年になって第二の作曲者アルフレード・マッツッキが共同作曲家として認められた。
1887年にマッツッキが作曲した23のメロディをディ・カプアが購入し、それらを原曲として作曲したのが「オー・ソレ・ミオ」を含めて18曲あったということを、マッツッキの死後に彼の娘が文学芸術科学館に申し出たのが始まりである。
ディ・カプアの子孫もまた当初はそれを認めずに争っていましたが、2002年にはトリノ裁判所によってマッツッキは共同作曲家として認められました。
アルフレード・マッツッキは1878年にナポリで生まれた。ディ・カプアより13歳年下だ。マッツッキという人物は、作曲家というよりTranscriber(転記者・謄写者)という職業であった。彼はピアニストとして、ディ・カプアのような作曲家の作曲活動の手助けをしていた。
「オー・ソレ・ミオ」が発表された1898年、マッツッキはまだ20歳という若き音楽家だったが、彼の死後すぐに「待ってました!」とばかりに彼の娘が共同作曲家であることを主張したようである。
「オー・ソレ・ミオ」の大ヒットの恩恵を受けたのは出版社です。
さらに2002年にトリノ裁判所でマッツッキが共同作曲家であることが認められてから、それまですでにパブリック・ドメインになっていたこの曲について、日本をはじめ著作権の期限を「作曲者の死後70年」と定めている国に関しては、新たに2042年まで著作権が復活したのである。
約100年間、ディ・カプアの作品と思われてきた「オー・ソレ・ミオ」だが、いまではマッツッキとディ・カプアの共同作品ということになっている。なんだか、遺族達の利権争いの臭いがしてげんなりするが、作品の魅力はそんなことで失せるものでもない。おそらく、これからも多くの人に歌い継がれ、多くの人はこの歌を愛し続けることであろう。
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Andrea Bocelli - O Sole Mio - Live From Central Park, USA / 2011
■盲目の世界最高のテノール歌手 アンドレア・ボチェッリ
アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli、1958年9月22日 - )はイタリアのテノール歌手。盲目のハンディキャップを抱えた世界最高峰のテノール歌手として知られている。アルバムの全世界売上枚数は9000万枚を超える。
大物オペラ歌手などが軒並み、この歌を録音しているが、ここではイタリアの盲目の名歌手アンドレア・ボチェッリの声に耳を傾けてみよう。この声を聴くと、彼がいまや世界最高のテノールと呼ばれるのが分かるような気がする。
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