山本直純 の亡くなった日
6月18日
山本直純 1932年12月16日 ~ 2002年6月18日
山本直純
山本 直純(やまもと なおずみ、1932年(昭和7年)12月16日 - 2002年(平成14年)6月18日)は、日本の作曲家、指揮者。東京都出身。
■音楽の底辺を広げた男
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渥美清
男はつらいよ/主題歌/渥美清
歌 渥美清
一年生になったら(まど・みちお 作詞 山本直純 作曲 )
■山本直純ってどんな人?
日本のクラシック音楽会界で最も有名な指揮者の一人小沢征爾は実はその師匠斉藤英雄の門下で山本直純の3年後輩に当る。
小沢は斉藤英雄に指揮を習いたかったが、斉藤が忙しいという理由で山本直純に小沢の指導を任せた。1年間山本直純の指導を受けた後に小沢は世界に飛び立つのだが、山本は小沢に「君は、世界の頂点を目指せ、自分は日本の音楽の底辺を広げる」と言ったそうだ。
山本は日本で地味な活動を続けているが、なんと言っても映画「フーテンの寅さん」シリーズのテーマ音楽の作曲で日本中に知らない人のないほどの作品となった。その後も「オーケストラがやって来る」のTV番組の司会でヒゲの指揮者として人気も博し、映画やTVドラマの音楽を手がけたり、童謡「1年生になったら」といった優しい作品も創った。
童謡「1年生になったら」は、作詞がまどおみちおで、山本作品でも愛されるものとなっている。NHKで目に障害のある子が小学校に入学するまでのドキュメント番組があったが、この作品がテーマ音楽のように使われて胸を打つものがあった。
山本直純の作品は、根底に愛があるからだろうか。ちょっととぼけた味の中に、目に涙をさそうなにかがあるような気がしてならない。
昭和を駆け抜けるように生きて、69歳で亡くなった。早すぎる死だった。
ボストン・ポップス管弦楽団のアーサー・フィードラーの後任に...などという話も出たらしいが、果たせずに終った。思えば残念なことである。
以下に「山本直純と小沢征爾」という書籍(朝日新書)の紹介記事があるので、一応ご紹介しておく。
ーーーーーー(引用)ーーーーーー
「男はつらいよ」「8時だョ!全員集合」も作曲 天才・山本直純はなぜ時代に埋もれたのか?
AERA.com 2017/10/19
山本直純という偉大な人物がいた。彼は、あの国民的映画「寅さん」こと「男はつらいよ」のテーマ音楽を作曲した。それだけではない。「8時だョ! 全員集合」「3時のあなた」「ミュージック・フェア」といった人気テレビ番組や、「武田信玄」などNHK大河ドラマの音楽も、愛唱歌「一年生になったら」も作曲した。そう、彼は20世紀後半を生きた日本人が、最も多くメロディを耳にしている作曲家かもしれない。
こうした直純の業績のほか、毎晩朝方まで酒を飲み、周囲の人々を巻き込むといった無頼エピソード、小澤征爾との友情、さだまさしとの交遊などを、音楽ライターであり、評論家であり、編集者でもある、柴田克彦氏が『山本直純と小澤征爾』(朝日新書)として発表した。
埋もれた天才・山本直純とはどんな人物だったのか? 柴田氏に寄稿してもらった。
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ある年代以上の方なら、赤いタキシードに口ひげと黒縁メガネの愛すべきキャラクターを思い出すのではないだろうか? 中でも印象的だったのは、「大きいことはいいことだ」のフレーズで一世を風靡したチョコレートのCMで指揮する姿、あるいは別のCMで高見山らと共に纏を振る姿であろう。
彼はかように身近にいた。いや、身近にい過ぎた。こうしたイメージが、世間に桁外れの才能を見失わせ、2002年の逝去後、忘却へと向かわせている。
1932年に生まれた彼は、作曲家の父のもと、3歳から音楽教育を受け、完璧な絶対音感を身に付けていた。何しろ小学校低学年時の日記に「今日はベートーヴェンの第1交響曲の出だしの和音を勉強してきました」と書いているほど。その和音は音楽理論的に特別な音であり、子供が学ぶレベルを遥かに超越していた。
直純の絶対音感については、名指揮者・岩城宏之が語るこんなエピソードがある。東京藝術大学の作曲科に入学した直純は、打楽器専攻の岩城と共に、副科で著名指揮者・渡邉暁雄のクラスを受講すべく試験を受けた。そのとき渡邉が「今からピアノで叩く和音の中の、上から三番目の音の、五度下の音を声に出してごらん」と言った。指十本を使った目茶苦茶な不協和音だ。すると直純は即座に正解を出した。岩城は「こんなことをできるやつは、日本に何人といないだろう。先生自身、絶対にできないに決まっている」と呆れ返った。
直純は、指揮法を理論化した「齋藤メソッド」で知られる大教育者・齋藤秀雄に早期から指揮を学び、その教室で3歳年下の小澤征爾と出会った。中学3年の小澤が訪れた時、齋藤は「いま手いっぱいで教えられないから、しばらくは山本直純という人に教えてもらいなさい」と言った。1年間教えた直純は、小澤の問題点をすぐに見抜き、そこを重点的に練習したという。“世界のオザワ”に最初に指揮を教えたのは、齋藤秀雄ではなく山本直純だったのだ。
しかし彼は、世界を目指す若き小澤に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と話し、自身は“底辺を広げる仕事”に力を注いだ。
その代表的な功績が、1972~83年に放送されたテレビ番組「オーケストラがやって来た」である。同番組の音楽監督と司会を務めた直純は、毎回興味深いテーマを掲げ、芸能人や文化人をゲストに招きながら、“敷居が高い”クラシック音楽を、明快に紐解いた。欧米で飛躍していた盟友の小澤も帰国するたびに参加し、ヴァイオリンのスターンやパールマンなど知己の大演奏家をも引き込んだ。この番組は、真摯かつハイレベルながら誰もが愉しく理解できる内容で、クラシックの普及に大きく貢献。直純と同番組なくして日本における当ジャンルの隆盛はなかったと言っても過言ではない。
残した作品は4000曲以上! 「男はつらいよ」全48作をはじめとする映画やテレビドラマ、CMの音楽を数多く手がけ、国連委嘱作品「天・地・人」の「人」、合唱組曲「田園・わが愛」などクラシックの名作も書いた。これに「迷混」「宿命」などの画期的なパロディ物や編曲を加えた才能は、「親父の一番長い日」の名アレンジを契機に、公私両面で親交を深めたシンガーソングライターのさだまさしをして「天才」と言わしめた。
指揮者・直純は、日本フィルの「ウィット・コンサート・シリーズ」で評判を呼び、1972年には小澤征爾と共に新日本フィルの設立に参画して、指揮者団の幹事を務めたほか、様々なオーケストラを指揮してポピュラリティ豊かなコンサートを多数行った。1979、80年には世界に名だたるボストン・ポップスを指揮。同楽団のフルコンサートを指揮した唯一の日本人となった。1983~98年には大阪城ホールにおける「一万人の第九コンサート」で音楽監督&指揮者を務め、膨大な演奏者をまとめる凄腕を発揮した。
惜しむらくは1978年の交通違反スキャンダルだ。これによって直純は、決まっていたNHK交響楽団の定期演奏会の指揮を断念した。もしこのとき指揮していたら彼の評価は大きく変わっていたに違いない。
小澤が「本当にかなわない。彼の方が圧倒的に上だった」と語る天才音楽家・山本直純を今一度見直し、彼が残したメッセージを改めて噛みしめたい。
山本直純と小澤征爾(朝日新書)
https://dot.asahi.com/dot/2017101800027.html?page=1
ーーーーーー(以上引用終わり)ーーーーーー
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