静けさや岩に染み入る蝉の声
静けさや岩に染み入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)は、松尾芭蕉が元禄2年5月27日(1689年7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺に参詣した際に詠んだ発句。『奥の細道』に収録されている。随伴した河合曾良が記した『随行日記』では山寺や石にしみつく蝉の声とされている。『奥の細道』の中でも秀吟の詩として知られている。(Wikkipedia)
◆山寺(立石寺)へ登る石段1,000段余の先は、「異世界」
「立った石の寺」とはうまく言い表したものだ。山寺=立石寺(りっしゃくじ)は、切り立った岩壁に多くのお堂が立つ。麓と、山の上の奥の院との標高差は約160メートル。これを参拝者は約1000段の石段で登る。
ここは、下界のにぎわいとは対照的な、清閑とした凄みがある。うっそうとした森の中、足元の岩々はコケに覆われ、岩壁には歳月で風化した無数の板碑。芭蕉が記した、物音一つ聞こえず、心の澄み切っていくような静まりかえった世界。まさに「異世界」。まるで向こう側の世界の何者かが現れてきそうな別世界を感じさせるのだ。
芭蕉がこの地で詠んだこの句は、説明不要な名句だ。山にあふれるセミの声で静寂を表わした非凡。山寺の懐の深さ。
◆五感について
芭蕉の句について考える前に、人間の「五感」について振り返っておこう。
五感とは、人間の外部からの刺激を受容する五つの感覚について説明したものだ。
視覚:光の波(光波、光の振動)
聴覚:音の波(音波、空気の振動=空気の波)
味覚:分子の波(分子の振動)
嗅覚:分子の波(分子の振動)
触覚:圧力(物理的な波)
の五つだ。これを超えた感覚を「第六感」と呼び、また「超感覚」とも呼ばれる。「超感覚」は感覚器官がないから「オカルト」とか「あり得ない感覚」と言われるが、本来持っている「五感」を極限まで研ぎ澄ましてゆけば、自然と生まれてくる感覚なのだと思う。
五感は、人間の外からの情報のインプットの基本である。
このうち「聴覚」については、音を扱う。これを受け取る器官は「耳」であり、鼓膜の振動を電気信号に変えて神経を通って「脳」に伝わる。したがって「脳」が音を聞いているとも理解される。
一般的には、音は聴覚(耳)で聞いていると理解されているのである。
ところが、近年、音を「皮膚」が聞いているのではないかという研究がなされるようになってきた。
皮膚は言うまでもなく人間の内と外を区分けする機能、外部の細菌などよからぬものを防ぐ機能、そして触覚という皮膚感覚で、ものの形状や性質を見分ける機能などがあると説明される。また、圧力を感じる機能もある。
実は、皮膚は人間の組織の中では「脳」と同じように発達してきているので、脳によく似ていると考えられているのである。
音は空気の振動である。
たとえば、水の波は風(空気の振動)によって引き起こされ、波立っている水に手を入れれば圧力を感じることができる。
つまり音(空気の振動)が圧力に変化するのである。
この圧力を皮膚は感じ取ることができる。
ベートーヴェンは晩年、耳が聞こえなくなり音を聞くことができなくなった。
ところが、ピアノに棒をつけて、その棒を口にくわえることで振動を感じることができたという。これは骨振動と呼ばれるもので音を聴き取れるとされている。
同様なことが空気の圧力を皮膚が感じることで音を聴き取ることができるというのである。
耳が聞こえなくなったベートーヴェンは、実は皮膚(肌)で音を聴き取っていたと言われている。
皮膚は、他の感覚器官と同様で、非常にデリケートで、ただ単に人間を一つの融合体としてまとめあげるだけでなく、感覚器官として非常にすぐれている。
目の見えない人が、指先で文字を読むことができるようになったり、皮膚でさまざまなことを感じ取ったりする。その中の一つが「音」なのである。
実験するまでもないが、大オーケストラの演奏を目の前で聴いてみると、耳を聾さんばかりの大音響に圧倒されることがあるが、耳に入ってくる音だけではなく、床を伝わってくる振動を全身で感じることができる。
どんなにすぐれたステレオ装置でも、生演奏のオーケストラにかなう音を聞くことはできない。
その振動を感じるのは「皮膚」なのである。
◆芭蕉の句は
夏の山に入ると、意外にさまざまな音に溢れていることに気がつく。蝉の大合唱や、野鳥たちの声、小川の流れるせせらぎの音、風が吹けば木々の葉の触れ合う音、人がいれば、人々の話し声や、枯れ葉を踏みしだいて歩く音などなどだ。
なのに、静寂を感じさせる。それは耳に届く音が小さいからだと思われがちだが、そうではないのだ。
山の中の音は、じつは「高周波」に満ちているのである。高周波は、小さな音でも「静寂」を感じさせるのである。そして、高周波は、ひとをリラックスさせる。
ときおり聞こえる「低周波」も邪魔にはならない。
高周波の音に取り囲まれていると、ひとは「安らぎ」「癒し」「リラックス」を感じ取ることができるのである。
ためしに、耳を塞いで、何の音も聞こえなくしてみると、何だか気持ち悪くなるのである。
だが、皮膚は音を聞いている。高周波の音は皮膚感覚を圧迫するほど強くはないが、まるでやさしく肌をなでてもらっているような心地よさを感じさせ、「安閑」とした静かさを感じさせるのである。
芭蕉の句は、まさにそのことを表しているのである。
まるで音のない世界に入ってような不思議な感覚を見事に表現している。蝉の声は「高周波」である。その蝉の合唱は石にしみ込んでいるようだと芭蕉は言う。これは、芭蕉の皮膚にしみ込んでいるのだと思う。
◆高周波が聞こえないとストレスフルになる
今の社会の人間の生活がストレスフルなのは、芭蕉の句に表されたような「静閑」さ、静けさがないために起こるストレスなのだと思う。
密閉度の高いマンションなどに住んでいると、人間がリラックスするために必要な高周波の音がないことに気がつく。小川の流れの音が聞こえるわけでもない、小鳥の声が聞こえるわけでもない、秋の虫の声が聞こえるわけでもない。音のない世界なのだ。
騒音などでも人間はストレスを感じるが、音のない世界も同じくらいストレスフルなのだ。
だから、人間には音楽が必要なのだ。音楽を聴いて、身体が必要としているよい「高周波」を耳や皮膚に与えてやらねばならない。
音楽がいいとはいっても、自然音に近い高周波が多く含まれる音楽は、100年の歳月を生きてきたクラシック音楽が、一番いい。
一日に一回でいいから、よい「高周波」を聴くことだ。
◆CDが身体によくないのは
私はLP派なので、CDを聴くことはない。CDやデジタル音楽は、意図的に「高周波」と「低周波」をカットして作られている。
現在ではCDが発売された時代よりも音質の改善は進んだようだが、それでも「よい音」が聴かれない。
CDで聴く音楽は何かが欠落してる。それは「よい高周波」のことだ。レコード制作会社は、人間の耳には聞こえない範囲の音は刻む必要がないと考えて、上下をカットしてしまった。
これがCDが音が悪い元なのだ。
高周波は倍音となって楽音に含まれる。これが音楽を聴いていて気持ちが良いのである。
その高周波がカットされていたら、気持ちの良い倍音も聞こえないし、人間の耳には聞こえないとされる「高周波」が入っていないCDを聴くと、耳のいい人(皮膚で音楽を感じる人)には、気持ちの悪さしか入ってこないのである。
世の中はCDやデジタル音ばかりになってしまった。LPレコードは骨董品扱いだ。
だが、LPの音のよさを味わってしまったら、CDやデジタルには戻れない。