いや、それは決して、時流に乗っただけのまやかし食堂を指しているのではない。
その土地の名前を店名に付け、如何にも地元に溶け込んだフリをする様なドサクサ食堂は嫌いだ。
これは持論だが、食堂とはまず、名物を作ってはならない。
名物におはぎなど以ての外だ。
大体、あんなに沢山並べて誰が食べるというのか?
その店でしか味わえない様な物は、居酒屋以上の店に任せておけば良いのだ。
食堂とは、例えるならば素麺の様な存在である。
貴船の様な避暑地に行き、流し素麺に三千五百円かけても惜しくない労働者がいるだろうか?
食堂とは、労働者と隣近所に住む住民の為だけに存在するオアシスだと、ここに断言する。
そう断言した途端、私は大事な事をすっかり忘れていた事実に驚愕した。
オアシスは、すぐそこにあったのだ。
毎日の様に通っているのに、私は何故気にかけなかったのか?
父が着たワイシャツの襟元にも似たテントのヨレ具合、母が干したまま取り入れ忘れたバスタオルを彷彿させる暖簾、祖父の口臭を思い出させる室外機の臭い等々…
私はバカだった。
店頭に立つ「止まれ」の標識は、他でも無い私のために立てられた物だったのだ。止まります、止まりますとも!!
全てが計算された様に重いサッシを開けると、入口脇には年代物の空調機が唸りを上げている。
唸りのかほりは、祖母の口臭だ。
店内には、私の他に客は無し。
あるのはテレビから流れる僅かな音だけ。
僅かな音だけなのだが、主らしき女性は私の存在に気付かない様だ。
いや、気付いてはいるが、もしかしたらはにかんでいるのかも知れない。きっとそうだ、そうに違いない。
一見雑然とした光景だが、私には分かっている。これらも全て計算された演出なのだ。
煮出しの麦茶も、あまり冷やし過ぎるとお腹に良くないはず。母心に胸が沁む。
食堂に必要なのは定番料理だけであり、そこが初めて利用する店ならば「親子丼」から注文するのがマナーである。
待つ間はスポーツ新聞を静かに開き、大人のページを開く時には指先を軽く舐めるのが紳士のたしなみと心得るべし。
私は今日、奥の部屋から洩れて来る老いた咳を耳にした。
細やかな心配りには、心底感服するばかりだ。
一見簡単そうに見える親子丼だが、実は考えているよりも大変な技術を要するメニューであり、写真の様に「卯の花丼」と見間違えるレベルの親子丼を出せる店は数少ない。
一口頬ばった瞬間、(良いほんだしを使っているな…)と思った。
爪楊枝を一本だけ拝借し、外へ出る。
またひとつ、素晴らしい名店に巡り会えた事に感謝し、重めのサッシを閉める。
今日も素晴らしい一日になりそうだ。





