ひょんなことから自分のルーツについて詳しく知ることとなった。

父方は三重県名張の出身である。母は神戸の出身だが空襲で家が全焼し、名張に住むようになったらしい。
父と母は名張で知り合い、大阪に出て暮らすようになった。

母は出産の為に実家に帰って私を産んだので、出生地は名張になる。

父方の両親も既に亡くなり、今は名張には親戚縁者がいないので、時折先祖の墓がある西方寺にお参りに行く以外は全く縁のない所である。


母からは父方の先祖が名張藤堂家の家老であったという話は聞いていた。又、40年程前に、新卒で赴任した職場の校長が名張の出身で、先祖が藤堂家の家臣であった。その方からも吹田家が代々名張藤堂家の家老職に従事していた話を聞かせていただいたことがあった。その後はそれ以上のことを知る機会がなかった。

最近、たまたま名張藤堂家に勤務していた方のブログを読む機会があり、【仙丸(後の藤堂高吉は)は養子に】 そのブログから祖先が北近江の戦国大名浅井家遺臣の小沢伝蔵に端を発していることを知ることになる。丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった藤堂高吉に7才より仕え、伊予宇和島、朝鮮出兵、関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣、今治と高吉と行動を共にし、名張藤堂家の家老へと至ったらしい。
高吉24歳の時に高虎に実子高次が生まれる。56歳まで今治藩主を務めていたが、幕府からの転封命令により高次の津藩藤堂家とは別に名張藤堂家の祖となる。

以下斜体字はブログより引用。



佐和山で平穏な幼少時を過ごしていた仙丸も、織田信長が明智光秀に本能寺で倒された事により琵琶湖を望む近江を離れることになる。織田の後継を狙う羽柴秀吉の策略が始まる。山崎の戦いで明智光秀を倒した秀吉は、次のライバルである柴田勝家との争いを有利にするために、丹羽長秀を味方に付けたい一心から長秀の三男「仙丸」を、秀吉の弟羽柴秀長の養子に求めたものである。当時秀長は但馬方面の平定の任に当たっていた。四歳になっていた仙丸は、天正10年の春、父丹羽長秀から与えられた付け人を従えて石出城に向い秀長に育てられるようになった。
やがて、秀長は姫路城に移るが、期間は短く天正13年9月に大和国郡山の城主になる。仙丸は、養父秀長からお伽奉公として、掘江平兵衛(6歳)朝倉家遺臣の子供、小沢(享保騒動の後吹田姓)伝蔵7歳浅井家遺臣の子が付けられた。三人は文武に励み成長する。なおこの年の4月仙丸の実父、丹羽長秀が越前北の庄で病没している。
一方伯父に当たる羽柴秀吉は、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を倒し、四国を平定し、天正15年5月九州の島津氏を降伏させる。そして天下をほぼ統一し政権を手に入れる。そうなると今度はその政権を身内で固めたくなってきた。弟、秀長の養子仙丸を廃嫡し、甥である姉の子秀保を後釜にしょうと考えだした。秀長は思いやり深く温厚で誠実な性格である、当初は兄の命令にも反対していたが、権力者で天下人の指示にいつまでも意地を通す事は出来なかった。
天正16年仙丸9歳の時、秀長の重臣である藤堂高虎に譲られる。当時高虎と正室の久芳の間には子供がいなかった。なお、久芳は以後も子宝には恵まれ無かった。その時、秀長から仙丸に一万石が与えられ、高虎も加増され一万石となり、義理の親子合わせて二万石となる。

文禄元年(1592)の文禄の役(朝鮮出兵)が高吉の初陣で14歳の時。掘江平兵衛、小沢伝蔵も左右に付き添い、高吉は水軍の副将を勤め、自ら槍を取って多くの敵を討ち獲った。功績により、太閤秀吉から朱印状を賜った。その書状は現在、名張藤堂家邸の展示室で公開されている。





享保騒動の後、小沢から吹田に改姓したとあるが、一体享保騒動とは何なのか、どうして改姓することになったのか調べてみると名張市の歴史の中で詳しく載っていた。
以下斜体字は引用。




享保騒動

享保19年(1734年)藤堂長煕は、宗家から独立し大名になることを試み幕府に画策する。 江戸詰の聞番役七条喜兵衛に命じ て丹羽氏や幕府用人大久保源次郎に通じ、横田太右衛門・ 鎌田新兵衛・小沢宇右衛門らが江戸へ下った。しかし享保20年1月には 宗家の知ることとなり、上野城から名張に来た藤堂修理に対して長煕は「将軍への謁見を願い出ただけ」と弁明した。 『永保記事略』 4月25日には「藤堂宮内江戸表へ不勤一件荒増わかり候事」とあり、藤堂長煕の画策は宗家に露見した。5月24日、上野城代藤堂玄蕃から 藤堂長煕・奉行横田太右衛門・家老鎌田将監・ 小沢宇右衛門・江戸聞番役七条喜兵衛・ 鹿道左近衛門6名に対し上野城への登城命令が出る。 5月25日、鎌田新兵衛・山崎太郎左衛門が上野城に赴き、藤堂長煕が眼病のため登城できない旨伝える。そのような状況下、 安濃津から藤堂隼人 が出向、藤堂兵庫が手勢を率いて水越に陣を張った。他にも要所要所に見張りや足軽を置き通行人を尋問した。名張藤堂宮内家も守りを固め、 一触即発の状態であった。26日、家老鎌田将監・奉行横田太右衛門・小沢宇右衛門・江戸聞番役七条喜兵衛・鹿道左近衛門・ 小沢藤右衛門・山崎太郎左衛門 の7名が藤堂長煕と別れを告げ、上野城に出頭した。厳しい取調べに対し、横田太右衛門・ 小沢宇右衛門・七条喜兵衛の3名が主人長煕のあずかり知らぬところ として責任一切を被った。この結果、小沢は藤堂新七郎、 横田は藤堂造酒之丞、七条は藤堂修理に預けられ、他4名は名張に返された。 藤堂長煕は名張代官藤林左武次から「隠居、長美家督相続」と伝えられた。8月23日になって預けられていた3名は切腹。 小沢の遺体は有田彦兵衛 が引き取り西方寺に埋葬され、姓を吹田姓に改め家系存立を許された。 横田の遺体は松本武左衛門が引き取り、専称寺に埋葬。七条は妻子がなかったため藤堂修理が葬儀を行った。 この後、宗家は2名の横目付を配し、名張藤堂 宮内家を監視した。家臣の旅行、他家へ使者を送る時・他家から迎える時にも必ず上野城に届け、許可が必要となった。


享保騒動については、『不熟につき・・・・ 藤堂家城代家老の日誌より』NHKドラマスペシャルで1990年放映されたらしい。原作は『江戸・管理職哀歌(エレジー)―藤堂藩伊賀城代家老の日誌より 単行本 – 1990/9/1岸 宏子 (著)』として出版された。

更に調べていくと、文化3年(1806)の名張絵図 があり、かつての屋敷を確認するこができる。





「御家中文限役付帳」でみる名張藤堂家家臣団の禄高を見ると享保19年(1734年)の時点で400石、現在の貨幣に換算すると約4000万円に相当する。




旧吹田屋敷の門は明治に百地三太夫屋敷に移築され、伊賀まちかど博物館として公開されている。




画像は三重県まちかど博物館HPより掲載

名張藤堂屋敷に隣接してある寿栄神社には
戦国時代のものといわれる「備前長船の刀剣」があり市文化財指定となっている。説明板にあるように幕末頃に家老であった吹田家伝来の刀剣を寄進したものである。