私は10日ほど前から、正確にはもっと前から、生きたいと思わなくなりました。
死にたいわけではないのですが、生きていたくないのです。
この矛盾、止揚に達して捉えていただければと思います。
何度かこのブログでも書きましたが、私は今年上旬、しばらく活動できない時期がありました。
サークル活動中に事故を起こし、第5,6,7胸椎(背骨)を圧迫骨折し、14級障害者として一生治らない変形を負いました。
忘れもしません、あの日のことは。
3月の事故以降、1か月間はベッドの上で仰向け以外の姿勢でいることを禁じられ、寝たきり生活でした。
食事も排泄も全てベッド上で、入浴は勿論できません。体を拭く作業も、上半身は背骨骨折用のギプスの影響で行えません。重く苦しい日々でした。
それから3カ月間、コルセットを装着し、運動を禁じられました。ここでいう運動とは、スポーツではなく、走ったり、階段を駆け下りたり、自転車に乗ったり、至極当たり前な「生活」のことで、スポーツなど論外です。
8月末の診断で、一応治療は終了しましたが、背骨は治りません。一生付き合うことになりますし、運動制限も無いわけじゃありません。
恋人ができたとき、お姫様抱っこもできませんし、子供ができた時、肩車をしてあげられないと思います。
一生の制限に、絶望しました。
元々活発であった私ですが、今年はそれがあってからというもの、大好きだったバレーボールもできなくなり、スキーサークルのオフシーズンのトレーニングもいけなくなりました。
今は、行けないわけじゃないので、先日復帰してみましたが、もはやスキーがフィジカル的にも、メンタル的にも怖くてできない私がそこにいる意味を見いだせず、最近フェイドアウトしています。
そんな中、私の大切な人は、
私を事故前から支えてくれた大切な人とは、
私の独りよがりで卑屈になってしまった性格が災いして離れることとなりました。
今年はバイトも扶養から外れる一歩手前なのでもうシフトも組めません。
スポーツもできなければ、コミュニティから、いえ、社会からも弾き出されました。
生きがいを求め始めた資格の勉強も、ここに私の価値を見出すには至っていません。
私は生きていたくないのです。
今生きている理由は、「迷惑がかかる」「誰かが悲しむ」、そんな受動的で消極的な理由であって、
これは生きているのではなく、
『生かされている』のです。
誰かが悲しんでくれるだけで有りがたいじゃないかと、私は言われました。
そこに、私はありますか?
私は生きたいと思っていなくても、生きていることになっているのです。
私のアイデンティティは失われました。
収まりつつありますが、10日ほど前は自分を殺そうとさえ思い、また実行しようと思いました。
しかし、あと一歩が果てしない。
どうやら死にたいわけではないみたいです。
これが、私の抱える矛盾。
生きていたくは無い。でも死にたいわけではない。
ここに辿り着いたら、人間は終わりなのかも知れませんね。
周りの多くない友人はこんなこと考えてもいませんが、これを思ったら、私は自分の世界を壊そうと思うようになりました。失うものなんて無いんです。
生きていることに、価値がないのだから。死にたいわけではないけれど、無鉄砲に生きて結果死ぬことは、自分の望みに由来しないのだから。
誰かに、最後の一歩を任せたいのかも知れません。
こういう背景があり、私は壊れた世界を一応生き、無鉄砲に生きたいと思います。
犯罪者が誰でもよかったと言って殺しをする心理はこれに近いのでしょうかね。
あくまでも私は、私に対して無鉄砲です。誰かを巻き込むのはまた違うのかも知れません。
私は少しずつ、10日間かけて、壊れた世界の中に飛び込み、壊れていく術を模索しています。