もし、病を治す薬というものが、副作用がなく、肝臓や腎臓等の臓器にダメージを与えず、いくら服用しても死なないくらい安全性が高く、食品のように毎日摂ることができ、それなのに、確実に「医薬品」として効果を発揮することができるものだとしたら?

 

そして苦しむ人にこそ効果を現し、なおかついろんな場面に使うことができる薬だとしたら?

 

そんな薬が、存在するとしたら?

 

 

 

 

・・・このことばを、私は何度も繰り返し、綴っていくと思う。

 

こういう場所でなければ書けないことがあるから。

妄想ということで片付けてもらえば、いいこと。

 

このくすりのことを書いて行くとなると、原稿が何枚あっても足りないくらい。

なぜこの場所でなければ書けないのか?

徐々に書いて行けたらいいな、と思う。

 

この先1年間は、記事を上げる頻度がさらに落ちると思うけれど、多くの人がこのことを知ったとしたら、きっと喜んでもらえるだろうと思うので、なるべく書いていきたいと思います。

 

ここを訪れる方はそんなに多くはいらっしゃらないのだけど、興味をもたれる方が1人でもいらっしゃるなら、そういう方のために、頑張って書かなくちゃ。。ヾ( ´ー`)

 

 

つい2日前(10/16)、このくすりの研修会を開いていました。その場に出席したある医者が、このくすりの特徴の一部を、がんの治療と関連する領域に絞り、端的に説明して下さったので、この色の文字で記しておきますね。φ(.. )

 

 

現在は癌に対する治療薬がとても多い。しかしながら、最先端の治療薬を以てしても、その副作用に苦しむこととなり、完全な治癒は難しい。

それに対し、漢方薬は、副作用がない。或いは少ない。これを抗がん剤と併用することで、抗がん剤のはたらきを補完することができる。

補完するアプローチは2通りである。抗がん剤の副作用を直接抑制するという「攻め」のはたらきと、そうではなくて体全体のバランスを整える「補い」の力により、体力を与え、副作用を和らげる効果に結びつけるはたらき、の2通りである。

 

漢方薬は、普通はこのうちのどちらかのはたらきしかない。

ところが、このくすりはその両方を同時に持ち合わせている。つまり「攻」「補」両方をもつ、「攻補兼施」の生薬製剤であるという珍しい特徴により、抗がん剤と合わせて服用することで、その副作用を見事に軽減させることができる。

(先ほどの体験談のように)抗リウマチ薬や透析をしていても苦しまない、という体験が多いのは、そのことによるものである。

 

・・・・・・後略。この箇所の部分は後日に・・・・・(?)

ちらっとだけ書くと、

 

このくすりは、体の中をきれいにしていくことができる。同時に、体調などに合わせて効果の現れ方が変わるので、それによって自分自身(の体の状態や体質)を把握していく(知っていく)ことができる。変○○○の薬であると思う。そしてその上に、この薬のさらなる価値がプラスされていく、という面を持ち合わせている、そんな薬だと捉えている。

 

といったところ・・・かな。

 

 

すべてを書いていくのは難しいけれど、

奥が深い薬だということが、伝わるとうれしいです。

 

 

 

とりあえず今日はここまで。。。(▰˘◡˘▰)

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

10日夜、NHKで、12時間の東京2020五輪特集の一環として、「レガシー、未来に何を残すのか」というテーマが組まれていました。おっっっ羽生くんのことばだ☆ヽ(゚◇゚ )ノと、そのことばに引かれ、すでに後半に入ってましたけど、見てみました。

オリンピックを通して、社会に埋もれている問題をもっと表に出して、多くの人が認識して、皆で良い方向へ社会を変えて行こう。そういう意識を共有しあい、共に進んで行こうとする私たちの思いが心のレガシーであり、価値がある。心のレガシーをつくっていこうというものでした。

 

羽生くん、キミはまさに、世界が今見つめ始めた人類社会のテーマを、すでに見据えているのね。と思うほど、世の中のトレンドの的を捉えてしまう羽生くんの感性、そのさりげない差し出しに、改めて脱帽致しました。

 

古民家のお風呂屋さんからつながったLEGACYへの想い、先日綴った中で、イノチもカタチもすべて消えても後にはココロがのこる、と私、書きました。あそこを読まれた方は、変なこと言うなあと思われたことと思います。自分で読んでも、変ですから A=´、`=)ゞ

 

NHKさんのおっしゃっていた「心のレガシー」は、たまたまオリンピックに焦点を合わせた話で、社会を変えて行くココロを「心のレガシー」として一つの大きなカタチにして次世代につなげて行こう、というものでしたけど、そうして社会改革を積み重ねて行けば、地球を良いカタチでのこして行くことはできる、と膨らませて解釈できる番組だったと思います。

私たちの心のありようで、地球の未来は変わる(今ならまだ間に合うかもしれないね)・・・。

 

レガシー、つまり遺すものの形には世界遺産のように有形のものもあれば、「心のレガシー」のように無形のものもあるけれど、そのどちらであっても、レガシーは、地球上の人類という受け手があってこそ使われることばですよね。


 

でも、悲しいことに、イノチはいつかは消えるし、積み重ねられたカタチは、何百年続いたものでも、少しずつ姿を変えて行き、やがては消えて行く。

どんなにレガシーとしてのこっていても、モノとして存在するものは、確実に、消える。

あと17億年もすると、地球も消滅し、レガシーを受ける、地球上の人類という受け手は、居なくなる。

 

そういう意味でのレガシーは、消滅する・・・。

私たちがイノチをかけて遺して行っても。

・・・でも、それは無駄なことではないんだ。

やっぱりその後に、のこるものがあるから。

 

いつかは消えるイノチやモノやカタチであっても、地球のために、多くの人のために、レガシーを遺すために、懸命に生きた人たちの、ココロは、地球が存在する限り、脈々と受け継がれ、たとえ地球が消えていったとしても、別の世界で、脈々と、受け継がれていくのだと、思う。


そういう、ココロの世界のことをちょっと書いてみたのが、古民家のお風呂屋さんを見てのつぶやき、でした。

 

 

 

この精神世界のことに、レガシーということばが当てはまるのかどうかは、わかりません。

(一般的な捉え方から見ると、当てはまらないだろうし、別世界という視点から見ると、当てはまるようにも思う。10/13追記)

 

プリンスさんの、「Let's  Go Crazy 」にあった、昼も夜も太陽の沈まない、アフターワールド。

思いっきり、行こうぜ、クレイジーになって、と言っているのは、好き放題やればいい、と言っているわけではなく、自己責任をちゃんと意識してのことなんだろうと解釈してます。

例が悪いけれど、好き放題人を殺した人がそういう世界に行けるかとなると、行けるわけがないのだから。

 

そういう世界があるからこそ、この生きている間を、思い残すことなく、自分がやりきったと胸を張れるような生き方をして行くことが大事であって、生きている間に苦しみをクリアできなければ、死んだ後も苦しみからは解放されない。。。

 

プリンスさんはそこまでは表現していなけれど、アフターワールドを意識して、価値のある魂となって人生を生き抜こう!!と言っているように思います。それで、羽生くんのSPとFSにつながりを感じたので、あのつぶやきの中で、最後にちょっと触れてみたのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……その家は
 小さな池の
 ほとりに立っていた
 ぼくは、はっきり
 おぼえている

 

  母は
 少し神経質で
 よくこごとを
 言った
 手のよごれや
 食事の作法や

 


ヨハンのモノローグとそれに呼応する回想シーンから物語は始まります。  

ガタン ガタン   という汽車の音と、回想するヨハン。


 

 
小さな町で汽車を降り、作家のモリッツ・クラインを訪ねるのだけど。。。

 「お・・・・・? だれだね」

 「?」「・・・・・・あ、あの」

憧れの作家を前に何も言えないヨハン。

 ♪♪・・・

 「コンソレーション・・・・・・!・・・リストですね?」

 「-ああ ルイーゼかね ルイーゼならはなれだよ」 

思わずその場を離れてしまい、ピアノの音のほうへ行ってしまう。

   

クラインの娘ルイーゼと初対面し、ピアノのひき方を教えているうち、おしゃべりが始まる。

ヨハンをルイーゼのボーイフレンドだと勘違いしたまま乗馬に出かけたクライン。

 

クラインが戻るまで、ルイーゼの部屋で続きのおしゃべりを。

 

・・・・・会話をして行くうちに、ヨハンのバッグから落ちた1枚の写真で、訪問の本当のわけがルイーゼにわかってしまう。

 

 

 

 

 

一瞬の沈黙の後、クラインを待たずにその家を退出しようとするヨハン。

それを止めようとするルイーゼ。

泣き出すルイーゼに、ヨハンは、本当の理由を語るとともに、心の中でつぶやく。

 

 ああ、そう

 あの人だって・・・


 ぼくよりずっと

 たくさんの時間を 生きて

  たくさんの悲しみに会ったはずなのに

 

 あの人は

 …なんてあたたかい

 …なんて澄んだ 

 言葉で 語り かけるものを かくんだろう・・・

 

ひきとめるルイーゼにお礼を述べ、ヨハンは自分の町へ帰路に向かう。

乗馬から戻り、ルイーゼからヨハンのことを知らされて、後を追いかけるクライン。

 

ヨハンの乗り込んだ汽車が出発する汽笛が鳴った、その時。

目の前に、馬から飛び降りるクラインが。。

 

 

「ヨハン!」と叫ぶクライン。

動き出した汽車。

 

大きく腕を広げ、自分の胸に飛び込むよう促す、クライン。

驚きのあまり声も出ないヨハンの代わりに、答えるかのような、車輪の音。

    

       (ガタン…)

 

二人のアップが交錯し、車輪の動く音の中、このモノローグが・・・再び始まる・・・

 

 ……その家は

 小さな澄んだ

 池のほとりにあった。

 ぼくは はっきり

 おぼえている

 

幼少時の回想と、二人の顔との、フラッシュバック。

 

 ぼくと弟たちは

 その家で生まれ

 幼年時代を過ごした

 

 家と

 母と

 季節ごとの花と

 

    (ガタン ガタン

     ガタン ガタン・・・)

 

 母はしょっちゅう

 ぼくたちの名を

 呼んでた

 よくとおる

 高い声で

 

 ―ヨハン!

 パウル!

 クリスチャン!

 

      (ガタン・・・ )

 

 父は

 大きな人で

 ぼくたちは

 いつも

 肩ぐるまを

 ねだった

 

 高い背

 

父とじゃれ合うこどもたち、そばに立って見守る母。

逆光を浴びる5人の親子の、シルエット

 

そして・・・・・・

 

そして、この後にラストページ。。

 

 

しゃくりながら泣きました。

たった、24ページ。なのに。

 

まるで映画のシーンのような、このクライマックスと、最後の、ヨハンの、逆光を背につぶやく、顔。。

 

 

ヨハンが七つになった時、父母は離婚し、父は作家となって別の女性と再婚していたのです。

ヨハンは、初め父を恨んでいた。

けれども、父の小説を読むうちに父への憎しみが尊敬に変わり、その父にひと目会いに行こうとした旅だったのです。

 

映画のような、広いアングルからの人物タッチと緻密な構図(コマ割り)、ストーリーの構成。

そして、詩を詠むようなヨハンのモノローグ。

 

萩尾望都さんの世界をよく表している、珠玉中の珠玉作だと思います。

本棚にずっと大切にしまってあります。

 

 

 

それと

 

この表紙の、ヨハンの伏し目のお顔。

羽生くん、この表紙のヨハンとイメージがかぶるんです。

伏し目の雰囲気が似ている。

髪の分け目が違うけどネ。

 

 ♥-(●´ェ`●) 

 

 

 

羽生くん、これは、残るよ・・・いや「遺る」と言えばいいのかな。

  ※まずは、現在生きている人の心にのこる意味で「残る」がいいのかな。

   「遺る」は、もっとその先のことだものね。

  

 

カナダ・クラシックのFSを観て。

 

あんなにジャンプもミスして、悔しい内容の演技だっただろうにも拘らず、私はまた観たくなって。

ライヴ映像で、たった2回繰り返して観ただけで。。。

 

ボロボロ。。

 

なんなんだろう。。

ことばを失った。

 

羽生くんが、あ、いえ羽生選手が足の状態を戻し(今回は右足首も傷めていたのですね)、この演技を自分のものにして、この先演技をしてきたら、

きっと皆が、羽生くんの内に秘めたものを感じ取り、感動に震えることだろうと、確信したよ。

 

 

「悲愴」の蒼

「レクイエム」のような翠玉の色

羽衣の白

 

羽生くんの透明な魂が

宿る色なのかもしれない

 

この曲は

すでにキミのものだね

 

 

 

説明なんか要らないね

 

ただただ、泣けてきたよ・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一昨日だった。

 

会社の数人で近県の町に出張してきた折に、皆で車に乗って、お風呂に入りに行くことがある。

行きつけの入浴施設が休館だったので、仕方なく他を探して見つけたのが、この写真の、とても古いお風呂屋さんだった。

 

一瞬、大丈夫かなあ~、と思った。古い木造の家のお風呂屋さんの中にはほこりっぽくて落ち着かないところもあったなとか、甦るものがあって。 玄関に入っていくまで、ちょっと覚悟した。

  

 

車を止める駐車場がわからないので、「おねがいしま~す」と言って玄関口で番台の方を呼ぶと、いつの間にか現れて、駐車場を教えてくれた、ここのお風呂屋の女将さん。

 

・・・あ・・れ・・・?・・・なんか、さわやかな風が・・・

 

このお風呂屋さん、昭和2年創業とのこと。89年間もですよ。(″д″;)すごい・・・

 

中に入っていくと、脱衣場は、狭いのだけれど天井が高くて、大正ガラスを使った窓が天井近く、壁いっぱいに並んでいた。床は古いのに、つやがある。洗い場もカランやシャワーが古い作りのままなのだけれど、お湯は問題なく出るし、どこかこざっぱりしていて、気持がいい。

 

近くからよく入りに来ているという老婦人との何気ない会話から、そのおばあちゃん曰く、ここのお風呂はすごくいいのよね、と。掃除が行き届いていて、お湯もすごくきれいで、スーパー銭湯よりずっとお薦めだと話してくれた。

よほど管理がしっかりしているんだろう。悪く言えば古臭い、吹けば飛ぶような、ちっちゃなおうち。

こんなに長くやっていたら、タイルはぬるぬるしてくるし、お湯の蛇口だって、つまったり錆びたり、どうにかなっちゃうだろうに。驚嘆に値する。

 

女将さんを玄関で見た時、無造作に髪をまとめ上げてお茶の間スタイルの出で立ちだったのだけれど、どこかスッキリした、さわやかな感じ、清潔さが漂っていた。

こんな古い建物にご夫婦で愛情を注いで、大事に大事に護っている。そのココロが美しいなと思った。

 

女将さんが清々しくさわやかに感じられたのは、その女将さんのココロが、映ったからなんだな、と思ったわけです。

 

 

それで、今日になって、ふと浮かんできたのです。このことばが。

(まだうまく整理できないのだけど、とりあえず、ざっと下に記しておきます)

 

 

LEGACY 

 

 

 

いずれ あのお風呂屋さんも いつかは姿を消すのだろう

時代の波に押し流されて

 

押し流されず とどまったとしても

 

火が着いたら あっという間

嵐が吹き荒れたら あっという間

 

イノチと 同じだね   

 

カタチあるものは いずれは消える

それが 伝統のものであってもなくても 

 

大震災が来て

多くのイノチ 多くのカタチを

みんなを持って行ってしまった

 

持って行かれる形は違っても

消えていくのは みな同じ

 

そうして 遺ったわたしたち

あとを受け継ぐわたしたちは

今もこうして 地球の上で

 

儚い イノチを

カタチに捧げて 生き続けている

 

カタチあるものは いずれは消える

それが 伝統のものであってもなくても

 

けれど イノチ儚いわたしたちが

カタチの中に ココロを入れていくなら

 

遺るのだろう 永遠に

カタチが消えても

 

カタチにゆだねた

わたしたちの ココロが

 

 

 

 

☆PRINCEさん 

 精神世界のことを言っていたよね

 つながってる感じがしました

 LET'S GO CRAZY   と

  HOPE & LEGACY   が