わたしが子供だった頃、配達に出かけていく父にくっついていき、

走る車の窓から、田舎の景色をよくながめていた。

 

おとうさん、あの(丘の上の)道、ずっと行くと、どこに着くの?

おとうさん、あの雲、なんていう雲?

しょっちゅう聞いては、父が答えてくれたものだった。

 

父は戦後、樺太からの引き上げで、縁あって道北の小さな町にたどり着いた。

結婚し母の実家のお店で食品製造を始め、独立して家を建てお店を持った。

 

いろんな客人がお店に、我が家に来たし、お祭りお盆は親戚でにぎわった。

人が来てくれて一緒にご飯を食べるのが、父も母も好きだった。

生家の空気が暗かったという父は、明るい家庭をつくるのが願いだった。

 

TVの時事放談を見るのを欠かさず、終わると必ず父の持論を聞かされた。

病院は予算制にし、予算内で患者を治すようにすべきだ(薬を濫用しないように)。

お墓は要らない、戒名も廃止すべき・・などなど葬式仏教のことは、めたくそ。

戦争は良くないが三綱五常の精神は大事だ。人間性の向上は大事なテーマだ。

社会主義も資本主義も、どちらもだめだな。世界は良くならん。 と。

 

わたしが病院を辞めて今の会社に入社を希望したときは、

医薬品に対する会社の考え方、漢方や生薬のことに賛同してくれた。

 

 

 

肝硬変で入院していた母が亡くなったあと、父は、独り暮らしになった。

眠れないからと眠剤をしばしば服むようになった(ボケやすくなるよという娘の警告も虚しく)。

時代を共にした友人たちも次第に消えて行き、寂しい町になっても、

父はその町で暮らし続けることを望んだ。

 

年に一度しか見に行けなかったけど、けっこう、きちんと暮らしていた。

夜中、裁縫具を買いたくても町にコンビニがなくて、隣町まで車で走ったとか。

それでも父には、みやこだったんだろな。

行政の話で熱くなるのは相変わらずだった。みんなの生活をいつも気にかけていた。

 

雪撥(は)ねで屋根から落っこちて、骨折し、ついに田舎を離れ、兄宅へ。

自由にいかないことも出てくるが、近くに住む兄嫁のお父様と仲良しに。

そのお父様が亡くなってから、認知症が現れ出し、会話が少なくなっていった。

徐々に介護を要するようになり、幻覚が現れ、兄宅では闘いの日々となる。

 

介護施設に入りかけ、父が入居を拒み、

兄は、寝場所を父のそばに変え、父に付き添う時間を増やしてから、変わったと言う。

認知は進んだけれど、認知の進む本人の気持ちが兄はわかるようになったらしい。

 

兄嫁も、看護師と食養生の知識を生かし、ずいぶん支えてくれた。

父を担ぐようになってから、義姉(兄嫁)の肩の筋肉がだんだん、切れていった。

それなのに、義姉の負担そうにしている様子を感じたことがない(わたしが鈍いだけ?)。

 

 

 

 

 

介護になってから、何年過ぎただろう。

1人で立って歩くことも、だんだんできなくなっていった。

紙パンツの中に尿パッドのシートをあてて、・・もう尿を止める力もなくなっていた。

 

この5月の連休、兄宅で過ごしたとき。

父とわたしだけのひと時があり、わたしは父のトイレを手伝った。

自分の恥ずかしい姿を娘に見られたくないのがわかった。

そこはわたしも男になって、父を抱えて起こし、腕を支えてトイレに歩かせた。

 

父の腕やからだの、なんと細く、軽いこと。

でも、嬉しかった。いつも兄夫婦の頑張りを横で見てばかりだったから。

 

 

東京に戻り、4週間ほど過ぎたころ。

幕張でファンタジー・オン・アイスが凄い盛り上がりで始まり、

それをTVで観て、感想を書こうとした矢先の朝に、連絡が来た。

 

その日の夜、兄宅に着き父に会った。

とても穏やかな死に顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

シンプルな家族葬だった。

お坊さんも呼ばず、戒名もなく、身内と身近な親戚だけで、静かに見送った。

 

父の介護に全力を尽くしてきた兄夫婦に感謝しかなく、お礼を述べると、

これからのことを学ぶ機会になった、自分たちは介護させてもらった、

自分たちこそ感謝してるのだと、ことばが返ってきた。

 

さらに頭が下がった。

 

 

 

 

父を抱えてトイレに付き添った、あの5月の連休のひとときを振り返った。

あの翌日に、父とわたしのやりとりがあった。

 

娘がいよいよ東京に戻る日に、父が、ぽつんと呟いた。

指をさすり、その指を見つめながら。

「東京に行くな。ここに居ろ。」

認知症で、ほとんど会話ができなくなったひとから出てきたひと言。

だから、ちょっときつかった。

 

「父さん、わたし東京に居ても、父さんとすごく近くにいるんだよ。

こころってさ、つながってるんだもの。」

普段ならくすぐったくって言わないことばなのに、そんな表現しか浮かばない。

 

それから、続けてことばが出てきた。

 

 

 

 

・・父さんは、しあわせものだね。

 

病気で苦しんだり、自殺したり、怪我や事故で亡くなる人も多いのに、

父さんの家族は短命が多いのに、90歳過ぎまで生きて、

こうしてそばでいつも見守ってくれて、心を向けてくれる人がいるんだもの。

 

わたし、おにいちゃん夫婦に、すっごく感謝してるんだ。神様にもね。

感謝してるの、これ、返していかなくちゃ。

だから、東京に行って、頑張らなくちゃね。

みんなの、役に立つくすり、つくっていかなくちゃ。

 

みんなの役に立つこと社会に役に立つことが、父さんの願いだったものね。

その父さんの願いね、受け継いでいくからさ。

だから、東京に行く娘を、応援してよね。

 

頑張ってくるからね。

父さん、ありがとう。

 

 

 

よく出てきたもんだと思った。普段なら言わないな・・

認知症の父にどれだけ通じるかわからない、と思った。

父のたましいに、捧げるような思いだったと思う。

 

結局そのことばが、父に話しかけた、最後のことばとなった。

 

 

父はそのあと、「東京に行くな」とひとことも言わなかった。

わたしが東京に戻った後も、ニコニコしていると、義姉は知らせてくれた。

 

父と二人だけで過ごした最後のひととき。

父にかけたことばは、自分にとっても大切な思い出の一つになった。

 

 

 

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みな様、こんにちは。

 

しばらく、どなたのブログにも行かず、父のことを振り返っていました。

(結弦くんの最新情報が知りたくてメガブロガーさんのところだけは見たかな。TOSHIさんのも少し。)

 

今は、亡くなった父を偲ぶことが、娘としていちばんにすることだと思い、

ブログ巡りをしませんでした。

そして、これまで振り返ったことを、そのまま記事にさせてもらいました。

 

 

FaOIはますます盛り上がっていますね。

これから少しずつ、皆様のところに伺うと思います。楽しみにしています。

 

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

 

 

 

星追記:

父の死因は一応肺炎とつきましたが、ほぼ老衰だったと聞きました。

好きな甘いジュースを飲もうとして飲めなくなったのがショックそうだった。

そのときに悟ったんじゃないかと。

 

代わりに水を欲したので、ひと口、口の中に含ませるように上げてると、

とてもおいしそうにゆっくりのんで、そして「ありがとう」と言って休んだそうです。

振り返るとそれが「死に水」だったんだなと、兄が言っていました。

 

翌朝、静かで反応がなかったので、夜中から朝にかけて逝ったと思うよ、と。

幸せな最期だったと思います。

備忘のため追記しました。よければ何かの参考にしてくださいませ。 6月9日 8:14

 

 

 

 

 

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