「美の意識者と体現者」というタイトルだったかな。
2年位前、まちがって消してしまった、書きかけの記事がありました。
何を書きたかったのかなあ、
何となく浮かんだことばで、今も整理できないのだけど。
美をひたすら体現する人と、
その美しさをひたすら見つめて感動している人と。
どっちが幸せなのかな、って考えたことがあった。
べつに、答えが出なくたって、何か困るわけでもないので、
そのうち忘れてしまってたのだけど、
平昌が終わってからも、
いのちのかぎりを尽くして進むすがた、たたずむすがた、
いろんな結弦くん、
ず~~っと観ていると、ふたたび浮かんできてしまいました。
結弦くんの美しさ、いまなおレベルが上がってますよね。
こんなにいっぱい、美しいものを観て感動させてもらって、
わたし(わたしたち)はいま、とっても幸せだけど、
結弦くんの幸せって、
わたしたちのこういう幸せとは同一ではないんだよね。
まずは、これを貼りたかった
通信DXのGPロシア版にありました
数日前に思わず買っちゃいました『フィギュアスケート通信』。
GPのヘルシンキ版とロシア版。100%結弦くん本でした。
その中にあった、いちばんお気に入りのお写真・・
ヘルシンキとロシアの結弦くんがいっぱいで、
解説文はほとんどなかったんですけど、
記念の写真集代わりにほしくなって、買ってしまいました
写真家、お絵描きさん、鑑賞するわたしたち。
美しい結弦くんの姿を外側から見つめて、喜ぶわたしたちは、
いわば、美の意識者ね。
いっぽう、結弦くんは、わたしたちの意識の先にある、
美の体現者。
わたしたちの渇いたこころに充足を与えてくれる、美の提供者ね。
こちらはヘルシンキのほう
結弦くんの美しさに打ちのめされて、その姿を追い求めて、
得られた幸せに酔いしれる自分(わたしたち)。
一方の、結弦くんは、芸術美の求道者だから、
鏡に映る自分の姿や動画サイトに映る自分の動きはチェックするだろうけど、
わたしたちのように自分(結弦くん自身)の美しさに酔いしれることなど、
なさそうですよね。
ロシアの少女たちも美しいものを知ってる~ ・・いいな~ しあわせそう・・
美を意識してしまうと、
それだけで美しさを失ってしまうときがあって。
自分は美しいとか、
自分の行いは美しい、とかね。
自分を外側から見て、評価に回ってしまうような意識のときね。
ほんものの美しさとは、
無意識のもたらす美しさ・・
傍目(はため)の物差しの意識のないところから生まれるものだからこそ、
結弦くんの美しさが際立っているように思えてなりません。
信念とか、情熱とかも、そういうところからあふれてくるものだしね。
ヘルシンキで ダムパリをフィンランド杯で演じたときも手伝ってたね
結弦くんの美しさを意識して、こころ満たされるわたしたち、
美の意識者。
そんな意識とは離れたところにある結弦くん、
美の体現者。
どちらが幸せなのかな。
ヘルシンキ~
わたしたちが発するよろこびを感じるのが結弦くんの幸せで、
その幸せと私たちの幸せは、直接つながってはいるのだけど、
結弦くんを観る側としての幸せ、
それが大きければ大きいほど、そんな自分たちと、
同じところに立ってはいない結弦くんとの間にある、
おかしがたい埋めることのできない距離を想ってしまう、わたしであります。
友野くん、優しいね・・ 結弦くん「カタジケナイ」ポーズ
でもね
とっても、とっても、しあわせそう・・
たぶん、結弦くんのほうが、なんだか幸せが大きいように思うけど・・
皆さま、いかが思われますか。
・・とまあ・・
特にどう、ということもないような、独り言でした・・
この疑問とは直接関係ないかもしれないのですが、引っ掛かる記事がありました。
「東洋経済ONLINE」というサイトです 。
この記事について思うところあって、昨日しこしこ書いていたら、
この記事とほぼ同じ内容の番組放送に、追い越されてしまいました。
TBSの「教えてもらう前と後」
結弦くん、野口美恵さん、ロシアの振付師の方のことばの引用はよかったけれど、
番組側のまとめのおことばに、やっぱり思うところがありました
「意識と体現」にかかわることだとも思うので、引っ掛かったのかもしれません。
いったん切って、またあとに書きますね。
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