第5話
「私の何がいいの?」
野口怜那はもう一度早川舞子に聞いた。
「だって、怜那の家はお金持ちだし、怜那は美人で、勉強も出来て、スポーツも出来るし、それに…」
そこで、舞子は言葉を切った。
「それに、何?」怜那が続きを促す。
「お母さんがいるし…」
怜那は何か言おうとしたが、のどの奥で言葉が絡まってしまった。
言葉に詰まって困っている怜那を察して「あ、ごめん」舞子は謝った。
気を取り直した舞子は、今日の数学のテスト問題の答えの確認を怜那にした。
怜那はベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
何か胸の中でモヤモヤしている。
舞子が並べ立てた「いいなあ」の条件を頭の中で繰り返す。
お金持ちか…
確かに家はお金に困ったことはないのだろう。
家も立派だし、家の中の調度品も立派だ。車もドイツ製の車だ。
だからといって、欲しいものを何でも買ってもらえる訳ではない。
それは怜那の両親の教育方針である。
生まれた時からそんな環境だから、
別段、お金持ちがいいとも悪いとも思ったことはない。
だだ、舞子が最後に言った「お母さんがいる」という言葉は怜那にはどうすることも出来ない。
怜那と舞子は小学校が違っていた。
舞子は多くは語らなかった。
怜那も聞き出したことがない。
小学校が同じだった岡田理沙に、舞子のお母さんは不倫をしていて、その不倫相手と車に乗っていて交通事故で死んだと聞かされた。
舞子が小学校6年生の時だったと。
「3歳年上のお姉ちゃんがぐれて大変だったらしいよ」理沙が耳打ちした。
もし、私が舞子だったら…
母親が死んでしまったことだけでも辛いのに、死んだ理由がそんな理由だなんて…
そう思うと、怜那はいたたまれなかった。
「舞子のお父さん、まだ立ち直っていないみたいだよ」
理沙はそんなことも言っていた。
お母さんが旦那さんがいるのに、違う男の人と恋をする。
そんな悪いことをどうして、舞子のお母さんはしたんだろう。
怜那には到底理解出来ることではない話だった。
怜那には姉と兄が一人づついる。
姉は22歳で今年社会人になった。
兄は18歳で今年大学一年になったばかり。
それから妹が2人いる。
小学校4年生と2年生だ。
そして、今、母は妊娠8ヶ月だ。
それも今日の医学によって男の子と判明している。
それを判った時の父と母の喜びようは尋常ではなかった。
子供達の前なのに、誰はばかることもなく、両親はハグをし合って喜んでいた。
子供達が目のやり場に困っていても、おかまいなしだ。
どうしても男の子が欲しくて諦められなかった両親は、7年ぶりでやっと、久々の男の子を授かった訳である。
どんな環境が与えられても、それは偶然なのだ。
苦しいことも辛いことも、後から必然だったと分かったとしても、その時は納得出来ない。
その時はその中でしか、自分の人生は回っていないのだ。
ふと、怜那の頭の中に前川美紀の顔が浮かんだ。
一度、姉に前川美紀のことを相談したことがある。
「大人になって社会に出たら、もっともっと嫌なことあるのよ。怜那はあまりにも優秀だから、妬んでいるのよ」
取り合ってくれなかった。
姉とは8歳、年が離れている。
姉も怜那と同じ傷つきやすい年代を通ってきたのに、大人になった今、すっかり忘れているようだ。
大人になるともっと大変だから、今を我慢しなさいと言われても、怜那は今を生きているのだ。
大人の辛さのことなど、どうでもいい。
母には心配かけたくないので、何も打ち明けられない。
兄は言葉数も少なく、何をしているのかよくわからなかった。
「怜那はいいなあ」舞子の言葉がよみがえる。
「私は孤独なのに、いいといえるの?」
怜那はいつも孤独感に怯えていたように思う。
怜那は仰向けになって、暗闇の中でかっと目を開けて、天井を見つめた。
私には陸上がある。
前川美紀のいじめから逃げてしまったら、私の世界を小さく閉じてしまうことになる。
高遠先生に褒めてもらうためにも、陸上競技会で最高記録を更新しなければ。
怜那の切れ長の目には力強い決心が宿った。
「私はオリンピック選手になるの」
怜那は自分の夢を口に出して、はっきり言ったのだった。
つづく
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
コメントをいただけたら嬉しいです。
愛川るな
人気ブログランキングへポチッとしてくださいね。