第4話
早川舞子が演劇部の練習を終えて、自分のマンションに帰ったのは6時半を過ぎていた。
玄関を開けると、たたきに父の靴が脱ぎ置かれていた。
3歳年上で高校2年の姉、踊子の靴はなかった。
今日は舞子が夕飯当番だった。
舞子がキッチンにいくと、カレーのにおいがしている。
父はカレーしか作れない。
「お父さん、どうしたの?」
父の後ろ姿に舞子が声をかけると、
「ああ、今日、仕事が早く終わったからカレーを作った」
振り向きもせずに、なべの中をかき混ぜている。
「今日、私の当番だったのに」
「ああ、いいよ」父が言う。
「もうすぐ、出来るから」
「じゃあ、着替えてくる」
キッチンからリビングを通って、玄関に一番近い自分の部屋のドアを開けた。
部屋に入って机に向かうと、着替えるより先に、今日の中間テストの問題用紙、5教科をカバンから出して、あらためて見直した。
得意な数学の連立方程式の設問で式を作る問題に、自信の無いところがあった。
野口怜那に電話をして確かめたいと思ったが、机の上の置き時計の針が7時近かったのでやめた。
7時に怜那の家庭教師が来ることを知っていたからだ。
「舞子。ごはんを食べよう」
父の呼ぶ声がした。
「はーい」と、返事をしてから舞子は急いで着替えた。
リビングの隣りの和室に母の仏壇がある。
舞子は食事の前に母の仏壇の前で手を合わせてから食卓の椅子に座った。
「お姉ちゃんは?」
「さっき、電話があって、遅くなるって言ってたよ」父が答える。
こうして、母のいない生活をするようになって2年が過ぎようとしている。
向かい合って、父と食事をする。
しかし、父は舞子と目を合わせようとしない。
「テスト、出来たかい」父が聞いた。
「うん。まあまあ」
それで、会話は途切れる。
父は母の死に方にこだわっていた。
舞子もこだわっていた。
そして、姉の踊子が最もこだわっていた。
今日も姉の踊子は帰って来ないのだろう。
この息詰まる家から踊子は逃げているのだ。
お姉ちゃんはいいなあ。
私も早く大人になって逃げたい。
舞子はそう思った。
野口怜那は家庭教師の高遠稔の横顔を見ていた。
「怜那ちゃん、テストはどうだった?」
高遠先生の彫りの深い顔が怜那を見て言った。
「全部100点を取れると思う」
怜那は心臓の高鳴りを悟られまいと、わざとすまして答えた。
「それはすごいな」
高遠先生は高慢知己な怜那を少し持て余していたが、ちゃんと向き合って返事をした。
高遠先生と勉強するようになって、3年近くが過ぎた。
怜那が小学校6年の時、私立中学校を受験するために家庭教師を両親がつけてくれた。
その時、高遠先生は北斗医大の3年生だった。
現在は研修医になっている。
怜那は初めて会った12歳の時に、すでに高遠先生への憧れを持っていた。
ただ、それだけで、高遠先生のプライベートなことは何も知らない。
それでも、8歳も年上の男性に初恋をしたことが、怜那の大人ぽっさに拍車をかけていた。
勉強を頑張るのは高遠先生に褒められたい一心だった。
陸上を頑張るのも高遠先生に褒められたい一心だった。
だから、前川美紀の言葉の暴力にも堪えられるのだ。
「怜那ちゃん。陸上競技会はいつだった?」
「10月6日」
少しでも自分に関した質問を問われると、怜那は動揺を隠すためわざとつっけんどんに答える。
「怜那ちゃんは偉いな。文武両道を成し遂げているんだから」
高遠先生の褒め言葉に、本当は飛び上がりたいほど嬉しかったが、怜那は無表情を装う。
「先生、早く勉強しましょう」
怜那は愛想なく促した。
高遠先生は苦笑いをしながら「そうだね」と頷いた。
怜那は高遠先生が帰った後も、高遠先生と予習をした数学の「相似の条件」を、必死に覚えていた。
そこへ、携帯の受信音が邪魔をした。
登録表示を確かめると、舞子からだった。
「舞子。どうしたの?」
怜那は背伸びしながら電話に出た。
「稔ちゃんとの勉強、終わった?」
舞子はいつもこんな風にからかってくる。
「稔ちゃんとの勉強、終わったわよ」
怜那も14歳の少女らしくおどける。
高遠稔先生といる時とは随分と違う。
「乙女心、キュンキュン、どうだった?」
舞子は尚も続ける。
「舞子。いい加減にしてよ」
相手にしていたら、いつまでも続くのが、舞子の悪い癖だ。
「怜那はいいなあ」
舞子が突然、神妙な声を出した。
「何が?」怜那の切れ長の目にきかん気な光りが走った。
「怜那はいいなあ」いつも舞子はそう言う。
舞子のその羨む気持ちと妬む気持ちは、紙一重の危険さをはらんでいた。
つづく
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愛川るな
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