第16話
香ばしいコーヒーの香りが漂い、ご主人がトレイでコーヒーを運んで来た。
それぞれ、センスの良いカップに注がれている。
「すみません。萌子はこのカップがお気に入りなもので」
そう言って、青い薔薇模様のカップを萌子さんの前に置いた。
萌子…
呼び捨てにしている。
夫婦なんだから当たり前だろう。
「ありがとう」と、それぞれ受け取った。
20年前、萌子さんは砂糖を3杯入れていつまでも、しなやかにスプーンをかき混ぜていた。
でも、萌子さんは今、ブラックを飲んでいる。
いつから、ブラックが飲めるようになったのだ。
この20年間、萌子さんを忘れたことはない。
ずっと、萌子さんはコーヒーに砂糖を3杯入れて飲んでいるのだと思っていた。
別に、嗜好が変わってしまったって
、僕には関係ない。
僕が勝手に20年前で時間を止めてしまっただけのことだ。
「今日は白老牛を焼きますから、楽しみにしてください」
ご主人はどこまでも紳士だった。
「白老牛!」実亜も早苗さんも、瞳を輝かせている。
「それにしても、萌子さんと実亜ちゃん、似ているね」
早苗さんが2人を見比べている。
「うん。看護師さんにも言われたの
。ねっ!」
実亜が萌子さんに同意を求めた。
「実亜ちゃんの方が若いし、ずっと可愛いわよ」
萌子さんはそう言ってから、僕を見た。
僕は苦痛だった。
「しかし、それにしても、すごい別荘ですね」
朔が空気を変えるように、違う話題を提供した。
「よく、来るんですか?」
朔が周りを見渡しながら、羨ましいそうな口調で言った。
「この別荘の持ち主と年に2回ぐらい来ている程度ですよ」
「お金持ちなんですね」
実亜がため息混じりに言う。
「みなさんは、1968年生まれですか?」と、ご主人が言ってから、「あ、実亜ちゃんと僕は違いますね」
薄く笑った。
「私は1983年生まれです」
「若いわね」
萌子さんがつくづく言い、早苗さんも頷いた。
「僕が一番年上ですね」
ご主人が萌子さんを見て笑う。
「何年生まれですか?」
実亜が訊いた。
「1960年生まれですよ」
「うーんと…」
実亜が頭の中で計算したらしく、「52歳かあ。お若いですね」と褒めた。
確かに見た目は若かく、40代後半と言っても通用する。
「1968年は、僕が8歳だったけれど、色々な事件が起きた年でしたね
」
「親が言ってたことがあるな。『三億円事件』があったて」
朔がコーヒーを一口飲んで言った。
ご主人が頷いて、
「あの事件は『昭和最大のミステリー』と言われた事件ですよ」
すると、実亜がコーヒーにむせながら、頓狂な声を上げた。
「三億円!?」
「今の貨幣価値では三十億円になるそうです」
「三億円がどうしたの?」
実亜は興味深々のようだった。
「東京府中で起きた強奪事件ですよ
。東芝の工場で働く人達の冬のボーナスを銀行の車が運んでいたんですけどね。ニセ白バイに発煙筒を車の下に投げ込まれて『危ない!爆発するから逃げて!』と犯人に言われ、三億円を運んでいた3人が車から離れた隙に、まんまとその車に乗って逃げてしまったんですよ」
「へえ~!それで犯人は?捕まったの?」
完全にご主人と実亜の会話になっていた。
始めて会ったように思えないようなぐらいに2人の呼吸は投合していた。
「未解決のまま、時効になりましたよ」
「えーっ!じゃあ、その三億円は?」
「どうなったのでしょうかね」
朔が「完全犯罪ですね」と、感心するように言った。
ご主人に二階へ案内され、それぞれの夫婦の部屋を確認した。
「僕達はここを使いますので」
と、示した部屋に萌子さんはドアを開け、消えて行った。
廊下を挟んで東南側だった。
向かい側に2つのドアがあり、「そちらで決めて下さい」と、ご主人が任せる意向を見せた。
僕は萌子さんの真向かいの部屋から
、反射的に避けたいと思った。
しかし、並んでいた順番で、必然的に朔夫婦が向こう側になり、僕達は
萌子さんの部屋の真向かいになった
。
「夕飯は6時でどうでしょう」
ご主人が提案した。
腕時計を見ると、3時だった。
もちろん、意義はない。
それまで、温泉風呂に入ることになった。
朔夫婦に先を譲り、僕達のひとまず部屋でくつろぐことにした。
部屋はちょっとしたビジネスホテルの部屋のような佇まいだった。
シングルベッドが二台置かれていた。
「秀ちゃん、どうしたの?」
実亜がバックから洋服を出しながら
、僕に訊いた。
「何が?」
「不機嫌そうにして、すごい無口でさ」
実亜は不服そうに僕を見た。
「別に、不機嫌じゃないさ。普通だよ」
「そうかなあ。全然、楽しそうじゃないみたい」
僕は少しイライラしていた。
緊張をしていたから、疲労困憊だった。
僕はベッドに寝転んで仰向けになった。
体がスプリングの反発で微かに揺れた。
そこに、さらに大きな揺れがやってきた。
実亜が僕の腕の中に入ってきたのだ
。
「変な秀ちゃん」
子猫のように僕の体に摺りよってくる実亜を、僕はいつものように抱きしめる気持ちになれなくて、眠ったふりをしたのだった。
僕は萌子さんを思っていた。
続く
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
コメントをいただけたら嬉しいです
。
愛川るな
小説(ミステリー) ブログランキングへポチッとしてくださいね。
Android携帯からの投稿