第9話
「あけましておめでとう」
ほとんど、腫れも引いて湿疹の赤味も取れて、皮がむけてきている実亜の傍の椅子に座り、声をかけた。
「秀ちゃん、ごはんちゃんと食べている?仕事、大変だったでしょう」
実亜が労ってくれた。
「うん、大丈夫だよ」
ベッドの上で上体を起こしている実亜の頭に手を置いた。
実亜は僕を恋しそうに見て笑っている。
隣りの萌子さんが軽く微笑んで頭を下げた。
そして、部屋を出て行った。
完全に出ていった萌子さんを確認して、すぐに僕は質問をした。
「実亜、あの人はどうして入院しているの?」
実亜は頓着なく答えた。
「コウゲンビョウだって」
「コウゲンビョウ?」
聞いたことはあるが、知らない病気だった。
「いつから?」
「20年前。23歳の時、発病したんだって」
僕は腰を浮かして、頓狂な声を上げそうになった。
実亜の手前、やっとの思いで平静を装った。
……23歳
あの時、萌子さんはすでに病気になっていたのか。
「実亜、だって、あの人、20年前に不倫していたって、言っていなかった?」
実亜が意味ありげに僕を上目使いで見て言った。
「秀ちゃん、どうしたの?あたしが話した時、興味なさそうにしてたのに。なーんだ。関心があるんだ」
「いや、別に。そんなんじゃないさ
」
実亜に変に勘ぐられては大変だ。
僕は実亜から聞き出すのを諦めて、話題を変えることにした。
でも、実亜は屈託なく話しを続けた。
「萌子さん、一時は寝たっきりになって歩けなかったんだって」
「コウゲンビョウって、そういう病気なの?」
「原因も治療法も分からないんだって。難病らしいよ」
僕は家へ帰ってから、コウゲンビョウについて、インターネットで調べようと思った。
「で、発病した時は悲しくて、淋しくて、忘れたくて、その不倫の相手にすがったんだって」
僕は萌子さんが時折、顔に憂色をたたえていたことを思い出した。
「どうしたの?」と訊くと、僕を見て「ごめん」と答えた。
デートの時に僕から心を離して、1人思考していることに誤っているのかと、当時は思い、別に深く訊かなかった。
病気という現実から忘れるために、僕を利用していることへの謝罪だったのだろうか。
でも、ご主人がいたのだ。
なぜ、ご主人にすがらなかったのか
。
僕は実亜にその疑問を投げてみた。
実亜は肩をすくめた。
「とにかく、病気という事実から逃避したかったんだって。ご主人といると現実を認めざる得ないじゃない
」
「そんなものなのか」
僕はいくぶん、とぼけてみせた。
本当はひどく動揺していた。
萌子さんとの付き合いは1カ月ほどだった。
萌子さんは僕の心をいきなり掴み取っておきながら、突然、僕を捨てた。
別れる際に、萌子さんは僕を見ないでつぶやくように言った。
「人は平凡を嫌うけれど、平凡に生きるって大変なことよね。」
その言葉の意味が、20年の時空間を超えて今、少し分かったような気がした。
「ねえ、秀ちゃんってば」
実亜に呼ばれて、我に返った。
「あたしは難病になっても不倫なんかしないよ。秀ちゃんにすがって、現実を受け入れるもん」
こういうことを言う実亜の言葉が、直球で僕の心に響く。
「うん」
僕は実亜の鼻の頭をなぜてやった。
「秀ちゃん、退院したら赤ちゃんを作ろうよ」
僕は照れながらも頷く。
「早くしないと、秀ちゃんは年だからね」
「実亜が若くて良かったよ」
ちょっと、じゃれ合う。
だが、実亜に対しての後ろめたさが
なぜか支配している。
今さら、萌子さんと話すことはない。
話す必要もない。
実亜の症状がよくなって、退院をすれば、それで終わりだ。
「ねえ、秀ちゃん。あたし、萌子さんとすっかりお友達になったのよ。メアドも交換したし、これからも仲良くしていくの」
僕は混乱した。
萌子さんは何を考えているのだろう。
そんなこと許されるはずもない。
僕に知らないふりを押し通せというのか。
危険な予感にめまいがしそうだった。
続く
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