第1話
「萌子さんだよね」「萌子さんじゃないかなあ」「萌子さんだよ」「萌子さんじゃないかもしれない」「いや、萌子さんだ」「絶対、萌子さんだ」
僕の頭の中で、迷いながらも、さっき会った女性が萌子さんなんだと、確信した。
僕が若かったころ、あの冬の日に別れた萌子さんだと。
僕はあの悲しみが雪のように溶けてほしいと、泣いていたことを思い出した。
僕はぐっと胸に迫る思いを振り切るようにアクセルを踏んだ。
*
昨日、妻の実亜がインフルエンザにかかった。
実亜は心の病を抱えていて、安定剤を服用しているのだが、タミフルとの相性が悪かったらしく、じんましんが出てしまった。
そして、今日、象のように体がパンパンに膨れ上がってしまったのだ。
僕は仕事がちょうど休みだったので、タミフルを処方してくれた個人病院に連れて行くと、直ぐに札幌大学病院の皮膚科の紹介された。
その足で、札幌大学病院の皮膚科の外来で診てもらうと、直ぐに入院するようにと、医者に言われ、そのまま、病棟の皮膚科に案内された。
9階北病棟の2人部屋に落ち着くことになった。
何も持たないで入院したので、必要なものを看護師に説明された。
それらを用意しなければならなかったし、入院手続きもしなくてはならなくて、僕は1人でうろたえた。
実亜は採決の検査結果、ステロイド投与を点滴で行われることになった。
実亜は「痛い」と、涙目になって、僕の手を握って離さない。
細くて可愛い手が本当に象のように
膨れ上がっていた。
窓側のベッドには、すでに1人の女性が横たわっていた。
僕たちが落ち着いたころ、その女性は上半身を起こしていた。
女性は窓側に向かって座っているベッドサイドの僕を見て、軽く頭を下げた。
気づいて、僕も軽く頭を下げて返したが、直ぐに実亜に目をやった。
でも、何か不思議な印象が僕の心を捉えていた。
看護師から、身体から毒素を出すために、スポーツドリンクを飲むように指示された。
僕がそれを買って来ようとしたときだった。
「良かったらどうぞ」と、症頭台の
冷蔵庫の中から、1500ミリリットルのスポーツドリンクを出してきた。
間仕切りカーテンの向こうから、女性が顔を出して僕に手渡してくれたのだった。
正直、ありがたかった。
遠慮する心を持ちながらも、スポーツドリンクに飛びついた。
もう、すっかり、疲れて動きたくなかった。
僕はこの数時間の怒涛のような、日常から離れた変化に動揺仕切っていた。
お代を払いますと、言う僕に、女性は、いらないと首を横に振った。
その女性のしぐさに、やはり、僕の心を捉えるものがあった。
とりあえず、コップにスポーツドリンクをついで、上半身を起こしてやり、飲ませてやると実亜は美味しそうにゴクゴクと、音を立てて飲み干した。
実亜も女性に礼を言うと、女性は頭を傾げて微笑んだ。
その途端に僕は心の中で叫んだ。
「萌子さん!!」
僕の血管の中にウオッカが流れて入ったように、身体が熱くなった。
僕には実亜という可愛い妻がいる。
しかし、どうしても忘れられない女性が僕にはいた。
2度と会うことのない女性だからこそ、忘れられなくても、実亜と結婚出来たのだ。
だが、もしかしたら、その女性がここにいる。
いや、違う女性なのかも知れない。
僕は象のように膨れ上がっている実亜の身体を慈しみながら、萌子さんの面影を追っていた。
病院の面会時間の7時もとうに過ぎて、僕は病院を出た。
年の瀬の風は冷たかった。
見上げると、11階建てのクリーム色の建物が、暗くて冷たい空に突き出ていた。
あの9階の右から2つ目の窓だ。
あの向こうに萌子さんがいる。
何てことだ。
僕は何を考えているんだ。
僕が帰る時の実亜のすがるような目を思い出して、愛おしくならなければならないのに。
実亜の目から涙があふれていた。
そんな実亜を思いながら、どうしても、オーバーラップして萌子さんのことが思われるのだった。
どうして、萌子さんは入院しているのだろう。
何の病気なんだろう。
まだ、萌子さんとははっきりしていないのに、思いやってしまった。
僕は駐車場の車に乗ると、萌子さんのことを振り切るようにアクセルを踏んだ。
西に向かって、30分、車を走らせて自分の住むマンションに着いた。
玄関で靴を脱いでいると、いつもなら、僕に飛びついてくる実亜がいない。
1人なんだと、あらためて痛感した。
そんな時だった。
実亜からメールが届いた。
僕はコートを着たまま、ソファーに身体を沈めて、メールを開いた。
『隣のベッドの人、とてもいい人だよ。松下萌子さんて、いう人だよ』
萌子さん…
僕を捨てた萌子さんだ。
萌子さんは僕に気づいていたのだろうか。
僕だと分かったのだろうか。
20年という年月をまったく、僕と萌子さんは別々に生きてきた。
僕は冷蔵庫からビールを出して飲むと、そのままソファーに身体を預けて眠ってしまった。
続く
『冬のカケラ』を書いていきます。
これからもよろしくお願いいたします。
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