第24話
奈津子は眠ったような、眠っていないような、すっきりしない感覚で朝を迎えた。
枕元の時計をみると、まだ、6時だった。
外はもう明るい。
東向きの部屋に届く朝の光りが、ピンクのカーテンの薔薇模様を薄くさせていた。
東京の朝の陽とは違う。
東京は朝の6時にはもう朝の陽は強い。
札幌はまだ優しい陽だと奈津子は思った。
父と弟はあれから、どうしたのだろう。
あのベンジャミンの植木鉢はどうしたのだろう。
弟が手当たり次第に投げたものは、
片付けたのだろうか。
ぼんやりした頭で考える。
奈津子は2人に会いたくなかった。
気まずいのもあったし、何よりも、
2人に嫌悪感を抱いていた。
家族が壊れていく。
家族のことが何も分からない。
年に2回ほど、帰ってきても、友達と遊んでばかりで、ほとんど家にいなかった。
母がパニック症候群だなんて、全く気がつかなかった。
いつもにこにこしていたし、普通だった。
昨年の夏、帰って来た時、弟が髪を赤くしていた。
「あんた、不良になったの?」
目を丸くして驚く奈津子に、弟が言う前より早く、母は笑いながら答えた。
「理科の実験をしたんですってよ」
「理科の実験?」
「凡人には分かんないよ」
弟が憎まれ口を叩いた。
「失礼ね。私は文学部ですから」
その後、母と弟が、代わる代わる話して奈津子に経緯を説明した。
弟が学校の理科の授業で、単元「身の回りの物質」を学習した。
そこで、酸素の発生の仕方を習った
。
過酸化水素水に二酸化マンガンを混ぜると酸素が発生する。
過酸化水素水はオキシドールとして、傷口の消毒にも使われる。
弟はそれを聞いて、それでは人間の
傷口からも酸素が出るのだろうかと思った。
家へ帰って、母親に訊くと、母親は
こう教えてくれた。
傷口にオキシドールを塗ると、消毒されている時に泡が出る。
体内にあるカタラーゼという酵素の一種がある。
そのカタラーゼが触媒として働いて
、酸素が生まれる。
つまり、泡は酸素だ。
母の話しを弟は嬉しそうに聞いていたそうだ。
そして、弟はなおも詳しく知りたくて、ネットで調べた。
弟は得意顔で奈津子に、質問をしてきた。
「さて、過酸化水素水に二酸化マンガンだけではなく、他のものでも酸素が発生します。それは何でしょうか」
「いやよ。考えたくない」
奈津子が面倒臭そうに、答えた。
普通に教えてくれれば、聞いてもいい話しだが、真剣に考えるほど興味がなかった。
「それは、レバーです。レバーにはカタラーゼという酵素が含まれているのです」
あの時の弟の満面笑みの顔を忘れない。
「何よ。偉そうに」
3人で声を上げて笑った。
しかし、それがなぜ、髪を赤くしたのと結びついたのか。
何やら、調べているうちに、オキシドールで髪を洗うと、漂白されて髪が赤くなることを知って、本当にそうなるか、やってみたということだった。
弟は昔から、そういうところがあった。
何か人とは違うところがある。
それを思いっきり、自由にさせてあげたら、弟らしく自分を出せたはずだ。
それを父親が厳しく学校の成績にこだわって、抑えつけていた。
小さいころから、見ていて、奈津子はそう感じていた。
でも、弟は素直で従順だった。
この一年間で、何かが変わった。
ふと、気がついて、奈津子は飛び起きた。
今のは夢だったのだろうか。
時計をみると、10
時だった。
あれから、ウトウトとしたらしい。
奈津子は急いで身支度をした。
父も弟もまだ、寝ているのか家の中は静かだった。
昨日、弟が投げて散らかしたものは、ある程度、片付いていた。
ベンジャミンの植木鉢も起こされていたが、こぼれた土や折れた枝や葉はそのまま、床を汚していた。
奈津子はリビングをそのままにして
、仏間に行き、母の仏壇に手を合わせた。
どうして、何も教えてくれないで、
死んでしまったの?
奈津子は母を恨みたかった。
父と弟の朝食が気になったが、早く舞さんのマンションに行きたかったので、支度をしないで家を出た。
奈津子自身、食欲がなかった。
奈津子はバスに乗って、東へ向かった。
途中で地下鉄に乗り換え、一時間かかって舞さんのマンションのある最寄りの駅で降りた。
舞さんのマンションは、駅から歩いて、5分ほどのところにあった。
途中で奈津子は弟に、出かけたことをメールで知らせておいた。
11階建ての最上階に住んでいる舞さんの部屋に入って、奈津子はソファーの上にやっと、安堵の気持ちで身を置いた。
舞さんはアイスコーヒーでもてなしてくれた。
奈津子はそれを一気に飲んだ。
アイスコーヒーの冷たさが気持ちよく乾いた喉を潤し、食道を通り、胃に落ちていくのを感じた。
舞さんは笑いながら「お代わりする?」と、聞いてきた。
「お代わりもしたいけれど、お腹が空いた。何か食べたい」
奈津子は遠慮なく言った。
母と高校時代からの友達だった舞さんは奈津子の弟のオムツも替えてくれたし、ミルクも飲ませてくれた。
時々、おこづかいやお年玉もくれたのだった。
舞さんは用意していてくれたらしく、美味しいパン屋さんで有名な店のパンをおしゃれなカゴに入れて出してくれた。
奈津子が落ち着くと、舞さんも横に座り、「まず、何から訊きたい?」と言った。
少しの緊張が奈津子の体に走った。
ここへ来る一時間の間で、あれも訊きたい、これも訊きたいと思っていた。
時系列に聞くことがいいのかも知れないとも考えた。
でも、まず、一番訊きたいことがある。
「お父さんと久保先生、いつ、どうして不倫関係になったの?」
「うーん。あのね、なっちゃん」
舞さんは奈津子の顔を優しく見て、慈しむように言った。
「まだ、二十歳前のなっちゃんに言うのは、何ていうのかな。気が引けるけれど…」
舞さんは言葉を選んでいた。
「話しが長くなるの。でも、最後まで黙って聞いてほしいの」
奈津子は決心したように頷いた。
舞さんは話しを始めた。
お父さんと久保先生は賢ちゃんの不登校のことで懇談したの。
最初は懇談だったのよ、確かに。
でも、いつのまにか、男女の関係になったの。
それで、久保先生、美奈子に直接、
そのことを伝えに行ったの。
そして、「赤ちゃんが出来た」って、言ったの。
奈津子は気が遠くなるような気がした。
つづく
最後まで読んでいただき、感謝いたします。