第7話
松村美奈子が不眠を訴え出したのは
2年前だ。
友達に勧められて、精神科に受診をした。
そこで、美奈子は単身赴任中の夫、松村伸輔が不意に家に帰って来るのが重荷だと、医者に話している
。
伸輔が単身赴任をしたのが3年前だ。
敏腕な胸部外科医として、札幌のS病院で活躍していた。
ところが、伸輔を可愛いがっていた助教授が、教授選で負けてしまった。
よくある話しだが、伸輔も転勤を命じられて、釧路の病院へ行くことになったのだ。
伸輔は勤務が休みの時は必ず札幌の家に帰って来た。
しかし、帰る度毎に眉間に寄せるしわが深くなり、無口になっていった
。
そして、2年半前のある日の朝、しょう油差しのビンが美奈子の手から滑り落ちて割れてしまったことがある。
しょう油は見事に床から跳ね返り、
食卓のテーブルや椅子の脚を汚した
。
ビンはもちろん、粉々に砕け散った
。
その時、伸輔が眉間にしわを寄せて美奈子をにらみつけた。
とたんに、美奈子は息が出来なくなり、心臓がバクバクと、音を立てて鳴り出した。
ある顔が浮かんだのだ。
美奈子の父親の顔だった。
美奈子の父親はとにかく、いつも機嫌が悪かった。
今は児童虐待防止法があり、自治体などが積極的に動いているが、現在40歳の美奈子の子どもの時代にはなかった。
忘れてしまいたい般若のような顔がまざまざと、美奈子の脳裏に蘇ってきたのだ。
その日の午後、伸輔は釧路に向かう列車に乗って戻って行った。
その夜、美奈子は眠れなかった。
いや、その後もずっと眠れない夜が
続いた。
そして、何の前触れもなく息が苦しくなり、心臓の鼓動が速く打った。
そんな日々が続いて半年が過ぎた頃
、美奈子の友人の宮下舞に精神科の受診を勧められた。
初めはためらっていた美奈子だが、
美奈子自身も辛くなっていたのか、宮下舞に付き添われて精神科を受診したのだった。
宮下舞は松村賢介に母親について、
症状について説明をした。
「血液検査の結果も異常なしなの」
母と高校生の時からの友達だという
舞さんは言った。
「じゃあ、母さんは何の病気なの」
松村は中学生になったばかりで、まだ、顔にあどけなさが残っていた。
「うーん」
独身の舞さんは美奈子より肌に張りがあった。
その舞さんが言いにくそうにうなっている。
「あのね、賢ちゃん」
一呼吸して、舞さんは言った。
「お医者さんが言うにはね。パニック症候群ということなの」
聞き慣れない病名に松村は誰でも吸い込まれそうになる奥二重の切れ長の目をまばたきさせた。
松村は自分の携帯の着信音で、ふと
、我に返った。
高山美波の名前が表示されていた。
さっき、吉永航平から聞いた美波が聞いてきたという言葉を思い出してうろたえていた。
松村は電話に出るべきか迷った。
着信音は松村を呼び続けていた。
つづく
最後まで、読んでいただき、感謝いたします。