大楽金剛不空三摩耶経般若波羅蜜多理趣品(以下引用)
 『理趣経』または『般若理趣経』は正しくは『大楽金剛不空三摩耶経般若波羅蜜多理趣品』といい真言密教で日常的に読誦されるお経である。名前から想像されるように『般若経』の系統に属しているが、内容的にはむしろ『金剛頂経』の流れを組む。

 この経が、実は密教ならではの衝撃的な内容をもつことは、佛教通ならば誰でもご存じだとは思うが、ここでは改めて『理趣経』の構成と内容についてできるだけ醒めた目で調べてみたい。

 密教で最重要視されるお経は『大日経』と『金剛頂経』である。しかしこの2つは日常の勤行では読誦されることはほとんどない。代わりに読まれるのがこの『理趣経』である。

 実は読誦するしないの区別は、その経典自体に読誦することによる功徳が説かれているかどうかが決め手になるらしい。つまり「これを読むとこんなに功徳が ありますよ」と自から言っているわけである。それを素直に信じるのが信仰というものであろう。『大日経』と『金剛頂経』には読誦による功徳については触れ られていないらしい。

 『大日経』と『金剛頂経』は読誦用というよりは、儀礼について書かれたマニュアルのようになっているらしい。「らしい」というのはまだ読んだことがないからである(笑)。

 それら密教経典に共通する特徴であるが、法身(ほっしん)である大日如来(経典では「大毘盧遮那如来」と表記)が自ら法を説いている。法身とは仏の三身 (法身・応身・報身)の一つで、真実そのものを指す。つまり釈迦が悟りを開いたのも、法身である真実(悟り)の境地に至ったからであり、法身そのものは釈 迦以前、この世とともにずっと変わらず存在していた。よって法身は宇宙の根源に等しく、法身である大日如来もまた然りと説く。だから肉体を持たない法身は 自ら法を説くことは不可能なのだが、密教では説いてしまうところに凄さと滅茶苦茶さがある。

 ちなみにマンダラにはそれぞれの仏の色が決められており、大日如来の色は「白」である。すなわち特定の色を持たない。しかし太陽の光がプリズムにより7 色に分解されるように、大日の光も5色に分解される。古代インド人は太陽光を5色の光の集合としてとらえていたようである。仏典によく現れる「五色の」と いう表現は実は虹のイメージなのである。

 さて『理趣経』は全17段から構成されている。各段の最後には、段の内容を象徴する梵字(種字)が書かれ、段の区切りとなっている。各段の長さはまちまちであるがそう長くはない。また『理趣経』全体もお経としては決して長い方ではない。

 各段は、法身大日如来が自ら説く場合もあるが、多くは薄伽梵(バカボン)がさまざまな如来に変身して説いている。法身である大日如来が、さまざまの如来に変身して説くのである。そしてまたこの如来の名前が密教ならではの多様さに満ちている。

 さらに先に述べたように、各段の最後に聴き手の菩薩が各段の内容をサンスクリット語の一字の真言(種字)に要約する。この菩薩というのが、初めから聞き 手として存在している場合と、段の最後で如来自身が菩薩に変身する場合があり、なかなか一筋縄でいかない展開となっている。

 さらに第13~15段は外道の神々(佛菩薩以外のヒンドゥーの神々)がこの経を賛嘆し、各々が短い感想と種字を述べている。こういう仲間内による自画自賛は、お経全体にしばしば共通して見られる現象である。

 それぞれの段のテーマ(法門)、如来名、菩薩名、梵字は以下のようになる。

テーマ 説き主 聞き手 種字
1 大楽の法門 金剛薩た 金剛手菩薩 フーン
2 証悟の法門 大毘盧遮那如来 金剛手菩薩 アーハ
3 降伏の法門 釈迦如来 金剛手菩薩 フーン
4 観照の法門 自性清浄法性如来 観自在菩薩 フリーヒ
5 富の法門 一切三界主如来 虚空蔵菩薩 トゥラーン
6 実働の法門 得一切如来智印如来 金剛拳菩薩 アハ
7 字輪の法門 一切無戯論如来 文殊師利菩薩 アム
8 入大輪の法門 一切如来入大輪如来 纔発心転法輪菩薩 フーム
9 供養の法門 一切如来種々供養蔵広大儀式如来 虚空庫菩薩 オーム
10 忿怒の法門 能調持智拳如来 摧一切魔菩薩 ハハ
11 普集の法門 一切平等建立如来 普賢菩薩 フーム
12 有情加持の法門 薄伽梵如来 外金剛部の諸天 トウリー
13 諸母天の法門 七母女天   ビヨー
14 三兄弟の法門 三兄弟天   スヴァー
15 四姉妹の法門 四姉妹女天   ハム
16 各具の法門 薄伽梵無量無辺究竟如来    
17 深秘の法門 毘盧遮那如来   フーム

 次回はいよいよ本文を読んでみる。

理趣経 ②「十七清浄句」

                                                        2005.01.22

 『理趣経』で最も重要で、いろいろな意味で有名なのは初段である。かつ全17段の中でも初段が最も長い。初段はさらに「序」と「正一」といわれる本文に分かれる。

 「序」の部分は「如是我聞」という言葉に始まり、いわゆる「五成就」の原則により「このように私は聞いた(ことを信じる)・いつ・誰が・どこで・誰に」 が明らかにされる。これらを「信成就」・「時成就」・「教主成就」・「住処成就」・「衆成就」といい合わせて「五成就」と称する。

 たいていの「経」は序としてこの「五成就」を持つが、『般若心経』のようにそれが省略され、いきなり本文から始まる経もある。

 この部分には、しばしば途方もないことが書かれており、特に「衆成就」の部分で、教えを聞いている人々が何千万人も何億人もいたり、阿羅漢や菩薩の名前だけが、延々と何十行にもわたって続くことも珍しくない。

 『理趣経』の「衆成就」では、「八十倶胝の菩薩衆と倶(とも)なりき」とある。「倶胝」とは非常に大きな数のことをいう。例えばまあ「80億人の菩薩が 一緒にいた」くらいの意味だろうか。まあ人類の人口を遥かに上回る現実には絶対に有り得ない数である。(ちなみに富永仲基という江戸時代の民間学者は、イ ンド文化の特質を「幻」と看破したそうである。)

 さすがに多すぎると思ったのか(笑)、その後で8人の菩薩名を挙げて代表させている。
すなわち、
金剛手菩薩大士(金剛のように堅固な菩提心の体現者)、
観自在菩薩大士(大いなる慈悲の実現者)、
虚空蔵菩薩大士(一切の事物を包容してあらゆる存在をさまげない福徳者)、
金剛拳菩薩大士(大いなる三密の行者)、
文珠師利菩薩大士(最上なる智慧の完成者)、
纔発心転法輪菩薩大士(素早くそして巧妙な説法者)、
虚空庫菩薩大士(無尽にして無余なる供養者)、
摧一切魔菩薩大士(外に憤怒を内に悲憂を懷いて悪を摧く奉仕者)
の八大菩薩である。それらに対し、法身である大毘廬遮那如来(=大日如来)が教えを説く。初段では大毘廬遮那如来が金剛手菩薩に向かって説く。

 ここからいわゆる「正一」に入り、本格的な内容が始まる。と同時に、こここそが『理趣経』の最も重要な部分である。最重要な部分が前の方に来るのも、お経全般の特徴かもしれない。

 その教えとはこうである。まず「説一切法淸淨句門」すなわち「一切法の清浄の句門を説きたもう」とあり、この世(現象としての世界)の存在すべてものが 「本質として清浄」であるという。「…清浄句是菩薩位(清浄なる菩薩の境地である)」というくだりが17回続く。ゆえに、ここは「十七清浄句」と呼ばれ る。

 いきなり「妙適淸淨句是菩薩位」という。「妙適」とは婉曲な表現であるが、実はこれ「男女交合の妙なる恍惚」のことである。そう、『理趣経』はセッ○スの歓びを菩薩の境地であると説いているのである。

 『理趣経』の衝撃的な内容とはこれである。これは「男女大いに交わりて菩薩の境地に至るべし」という意味なのだろうか。密教はセッ○スを勧めるのか。普 通佛教だけでなくたいがいの宗教は、性の放逸を戒め、清らかな生活を説く。そもそも佛教も「不邪淫戒」というのが有るくらいだ。さらに「慾箭」「觸淸」 「愛縛」とかアブナイ言葉がどんどん続く。

 とりあえず本文を読んでみよう。

(漢訳:不空三蔵)

妙適淸淨句是菩薩位
慾箭淸淨句是菩薩位
觸淸淨句是菩薩位
愛縛淸淨句是菩薩位
一切自在主淸淨句是菩薩位
見淸淨句是菩薩位
適悅淸淨句是菩薩位
愛淸淨句是菩薩位
慢淸淨句是菩薩位
莊嚴淸淨句是菩薩位
意滋澤淸淨句是菩薩位
光明淸淨句是菩薩位
身樂淸淨句是菩薩位
色淸淨句是菩
薩位聲淸淨句是菩薩位
香淸淨句是菩薩位
味淸淨句是菩薩位
何以故
一切法自性淸淨故般若波羅蜜多淸淨

(現代語訳:青木淳、番号:筆者)
  1. 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
  2. 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
  3. 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
  4. 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
  5. 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
  6. 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
  7. 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
  8. 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。
  9. 自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。
  10. ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。
  11. 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。
  12. 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。
  13. 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。
  14. 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。
  15. 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。
  16. この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。
  17. 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。
  なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからで ある。ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清 浄でないものがないという境地になるであろう。


 いかがでしょうか(笑)。読んでお解りのように、ほとんどセッ○スについてばかり、ひたすら「清浄で菩薩の位」であること述べられている。こんなことが 述べられているのは、少なくとも我が国の経では『理趣経』だけで、これが昔から『理趣経』が問題視されてきた理由である。

 しかしなぜセッ○スが菩薩の位になるのかは「世のすべてのものは清浄だからだ」という以外、理由は説明されていない。一般に、お経というものの特徴とし て、「それはなぜか」ということを綿密に論証することはせず、ただ結論だけを一方的に羅列する。大体この「十七清浄句」にしたって、ただ思いつくまま並べ たら17になったという感じである。厳密な分析の結果には見えない。ひょっとしたら全十七段に数だけ合わせたのかもしれない。

 ともあれ、こうした思い切った欲望の肯定が、密教の大きな特徴であることは間違いない。

 しかし「一切清浄」だからといって、「真実を見る智慧の眼である般若」を開くことのできない我々凡夫が行うセッ○スも清浄といえるのだろうか。あるいは 般若の眼を開いた人は果たしてセッ○スをなさるのだろうか。http://ameblo.jp/hiromi-1630/このあたりは実は密教、特にチベット密教、を理解する上で重要なポイントかもしれない。

 次いで本文は経の功徳について述べられている。また大毘廬遮那如来(=大日如来)と金剛勝薩た(土編+垂)及び金剛手菩薩の仏格についてが、いささか解かりにくいのだな。その辺は次回で。