[以下引用]
※ 東寺の講堂内部に安置されている多数の仏像は国宝、重要文化財が多く、大変、興味のある寺です
。空海が諸仏像の計画をなし、弟子の『実恵』によって完成したと言われるものです。3月21日は空海の命日(入定した日)にあたる縁日は、大変有名です。
空海と教王護国寺
この寺は、弘法大師(空海)に縁(ゆかり)のある寺です。昔、平安の都を造った時、2年後の796年に、都城鎮護のために創建された、官立の寺(教王護国寺)です。その大きさは、2町四方の広大な境内を持つ、大寺院でした。
空海は、804年(31歳の時)、遣唐使として、唐にわたりました。
空海は、唐の都(長安)にある青竜寺の《恵果和尚》に《真言密教》の真髄を学び、《阿闍梨》の位を授けられ、「遍照金剛」と言う僧号を貰って、日本に帰りました。四国順礼で「南無大師遍照金剛」と書かれているのを良く見ますね。
伝えによる
と、日本に帰ってから、筑紫の国で3年過ごし、809年、都に戻り、高雄山寺(京都)に入り、真言宗の布教活動に努めます。有名な《最澄》(伝教大師)も空海から潅頂(かんじょう)を受け、形のうえでは、弟子になりました。
★《薬子の変》と空海
810年には、都で『藤原薬子の変』が起こりました。この時、空海は『鎮護国家』の修法を行いたいと、朝廷に申し入れます。嵯峨天皇は、大いに喜び、空
海に命じます。この変も、時の大納言《坂上田村麻呂・清水寺に縁のある人物》の活躍でおさまります。これを機会に、天皇と空海の関係は、極めて親密になっ
ていきます。
816年には、朝廷は、空海の要望を聞き入れ、高野山にお寺(金剛峰寺)の造営を許可します。
821年には、讃岐国の国司がら朝廷に出されていた満濃池の改修の要望を、空海に命じました。早速、これにとりかかり、空海を慕って、工事に参加する多
数の庶民のおかげで、堤防をアーチ型に改造し、瞬く間に、『満濃池』の補修を終えました。唐で学んだ土木技術が役にたちました。現在でも、満濃池は使われ
ています。日本一大きな『池』だそうです。
★東寺を授かる
その後、空海の弟子が多くなり、高雄山寺ではてぜまであろうと、朝廷から、教王護国寺(東寺)を授かります。(828年頃)、空海は喜んでこの寺を頂戴し、この寺を、「真言宗」を広める為の中心拠点(根本中堂)にしました。
★東寺を弟子に与え、高野山へ
しかし、この寺を弟子の《実恵》に与え、高野山の金剛峰寺に登ります。・・・と言うような訳で、旅の最初に空海が登場した訳です。
| 弘法大師・空海は、774年(宝亀5年)6月15日讃岐国 (さぬきノくに、香川県) 多度郡(たどノごおり) 屏風浦(びょうぶがうら)の「善通寺 (ぜんつうじ)」で生まれ、 父は郡司で、佐伯直田公(さえきノあたえたきみ)、善通 (よしみち)、母は阿刀(あと) 氏 の出で、阿古屋(あこや)、玉依御前(たまよりごぜん)、 兄二人は幼少に他界し、 三男空海は幼少の頃から佐伯家(先祖は大伴氏の分家) の跡取として育てら れ、幼 名を真魚(まお)と云い、貴物(とうともの)と呼ばれました。 なお、6月15日は密経経 典をセイロンから唐へ最初に伝えた真言密教付法第六 「不空 (ふくう)三蔵」が入 滅した日で、空海は不空の生まれ変わりと云われています。 |
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善通寺御影堂(大師堂)
空海の生まれた屋敷跡 |
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真魚もこの巨樹を見て育った?

777年(宝亀8年)6月空海4歳の時、讃岐の沖を西へ帆走する丹塗りの四つノ船(第 16次遣唐使船、大使・佐伯今毛人は病と称して乗船せず、副使・小野石根が代行し、大伴益立、藤原鷹取、大神末足らが乗船)を見ましたが、5、6歳頃の空 海は夢で八葉の蓮華の上に座り、慈悲に満ちた御仏達と楽しく話しをするのが常でしたが、翌年(宝亀9年)長安に到着した小野石根らは帰国の時に遭難死しま した。
780年(宝亀11年)空海7歳は、家の西にある捨身岳(しゃしんがたけ)に登り、「私は将来、仏道で多くの人を救いたいと思いま す。この願いが叶うならば命を救って下さい。もし叶わないならば命を捨ててこの身を仏に供養します」と云い、崖の上から谷底めがけて身を投げると、釈迦如 来と天女が現れ真魚を受け止めてくれたので、後にその山の名を空海が我拝師山(がはいしざん)と改め、山上に第73番札所「出釈迦寺(しゅっしゃかじ)」 を建立し、本尊として空海が自(みずか)ら刻んだ釈迦如来像を安置しました。
781年(天応元年)空海8歳の春、4月15日平城京 で山部親王(やまべノみこ、光仁天皇 の第一皇子)が、風病と老齢(73歳)を理由に退位した父帝に代わり、第50代桓武天皇に即位し、同母弟・早良親王 が立太子に立ちました。
784年(延暦3年)5月7日難波に体長4寸(≒12cm)ほどで、黒い斑をしたガマの大群が現れ、その数ざっと2万匹、見ていると 3町(≒327m)の大行列をつくり、南へ向かって行進し、四天王寺の境内に入って、その内どこかへ消え去ったと、「続日本紀」に摂津職からの報告として 記載されていますが、この頃、平城京 からの遷都(せんと)が計画され、6月長岡京の造営に着工し、11月11日桓武天皇は、未だ完成もしていない長岡京へ遷都しました。
785年(延暦4年)空海12歳の時、両親が云った事が、「遺言真然大徳等(ゆいごうしんぜんだいとくとう)全集2・814頁に記載 され、それによると、「我が子は昔、釈迦の弟子だったのでしょう。両親が同じ夢を見、印度の立派なお坊さんがスーと懐に入って、母が身ごもり、そして生ま れた子だから、将来仏弟子にしましょう」とあり、これを聞いた空海は大変嬉しく思い、泥をこねて仏像を作り、家の近くに小さなお堂を建てて安置し、毎日礼 拝するのが常でしたが、この年(延暦4年)最澄(さいちょう)19歳が東大寺 で 具足戒(ぐそくかい)を受け、9月23日長岡京造営使の藤原種継(たねつぐ)が暗殺され、罪をかぶせられた早良親王が山城国(やましろノくに、京都府長岡 京市)「乙訓寺(おとくにでら、現在ボタンの名所)」へ幽閉され、自ら食を断ち、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋付近で餓死しました。
788年(延暦7年)前年末から5ヶ月旱魃(かんばつ)が続き、4月10日朝廷が丹生川上神社
に
黒駒を奉じて祈雨(あまごい)をすると、16日天が俄かにかき曇り降雨があった頃、空海15歳は長岡京に上京し、叔父(母の弟)の儒学者・阿刀大足(あと
ノおおたり)に論語・孝経・史伝などの漢籍を学びましたが、叔父は従五位下、桓武天皇の第三皇子・伊予(いよ)親王の侍講(じこう、個人教授)を勤めてい
ました。
791年(延暦11年)空海18歳は、当時日本に1つしかない官吏養成の最高機関であった大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだ
ノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学びましたが、また、ある沙門(しゃもん)の一人から虚空蔵求聞持法(こ
くうぞうぐもんじほう、もし人がここに示した修法によりこの真言を百万遍誦ずれば一切の教法文義を暗記する事ができると書かれている)を授けられ、大学を
退学して、私度僧になり、阿波(徳島)の太瀧嶽(だいりょうだけ)などで求聞持法を行じ、土佐(高知)室戸岬の洞窟で、夜を徹して一心不乱に虚空蔵菩薩
(こくうぞうぼさつ)の真言(しんごん、悟りを得る一種の呪文)を唱えていたら、夜明け前に太平洋の彼方から明星(みょうじょう、虚空蔵菩薩の化身)が飛
来し、阿(あ)と叫ぶと、口より体内に飛び込みました。なお、吉野の大峯山
や、伊予(愛媛)の石鎚山(いしづちさん)などでも修行をしましたが、いずれも何故だか水銀や金、銀、銅などが産出する地で、また、「弘法穴」と云えば、炭窯の煙を出す穴のことで、空海が考案しました。
