煩悩に対する密教のとらえ方
本心は主、妄念は客なり という空海のことばがあります。空海にとって、煩悩とは克服すべきものではありません。例えば、煩悩の炎とは、まき薪を補給するから燃え続けるのです。私 たちは次々と薪を補給して、煩悩を増大させて苦しんでいるわけです。慌てて煩悩の炎を消そうと、水をかければ灰神楽になります。大切なことは、新たに薪を 補給しないことなのです。薪がなくなれば、自然に火は消えていくのです。それが涅槃に至る方法です。慌てて消そうとしてはいけません。薪を補給しないで、 いま燃えているものはそのまま燃えさせておけばいいのです。それが煩悩に対する密教の考え方です。
悟りを得た聖者と凡夫の違い
この問いに対して、お釈迦さまは次のようなことを説かれています。悟りを開いた聖者も凡夫も、それぞれ「第一の矢」は受けるのです。例えば、つまずいて転 んだら「痛い」と感じる。あるいは美しい花を見れば、「きれいだな」という感覚です。悟りを開いた聖者も凡夫も、生きている以上感覚がありますから、それ ぞれ感じるのです。それが第一の矢です。聖者は、その「第一の矢」で終わるのです。しかし凡夫は、「第一の矢」で終わらないで、次に「第二の矢」までも受 けてしまいます。 凡夫は美しい花を見たら「きれいだ」というだけで済ますことができないで、「もっときれいなものを見たい」「花を摘んで帰ろう」などと、次々に執着が出て くるのです。するとその執着によって苦痛を受けるわけです。つまずいて転んで「痛い」と感じることは、お釈迦様も同様です。けれども、お釈迦様はただ「痛 い」と感じるだけで終わるのです。つまり、「第一の矢」で終わるのです。私たち凡夫は、「ええいっ、いまいましい」「誰がこんなところに石を置いたんだ」 と腹を立ててしまうでしょう。それが「第二の矢」です。 生きている以上、「第一の矢」を受けるのは仕方がないことです。大切なことは、「第二の矢」までも受けないことなのです。
ものには物差しがない
『般若心経』では、‐諸法空相-といいます。「諸法」とは「あらゆるもの」ということですから、諸法空相とは、「あらゆるものは空である」ということで す。そして『法華経』で説かれる‐諸法実相‐とは、「あらゆるものが真実である」ということです。 しかし、これでは何を言っているのか、さっぱりわからないでしょう。そこでこれらをもっと易しく言い換えてみると、諸法空相とは、“人間の物差しでものを 計るな”ということであり、諸法実相とは“仏さまの物差しでものを計れ”ということです。 私たちは、「人間の物差し」で全てのものごとを計ります。たとえば、「あの人は善人だ、悪人だ」といった風に...。あるいは、「頭がいい、悪い」と。そ れで「あの人は善人だ」と尊敬したり、「あいつは頭が悪い」と軽蔑したりします。しかし、「そんな物差しで人を計るな、そんな物差しなど当てにならないの だ」というのが諸法空相なのです。 ここに一千万円があるとします。私がそれを見れば「わあ、すごい大金!」と思います。しかし、大金持ちが見れば「なんだ、はした金」となるでしょう。一千 万円という金に物差しがついているわけではありません。物差しはそれを見る人間の側にあります。 仏教は、「すべてのものは空なのだ。それなのに、空なるものをわたしたちが勝手な物差しで計って、大きい・小さい・美・醜・長・短・・・とさまざまに差別 し、レッテルを貼っている」と教えています。だから、「こだわるな。自分が勝手に差別し、レッテルを貼った、その差別、レッテルにこだわるな」それが諸法 空相なのです。