(岐阜県岐阜市の岐阜駅北口にある、黄金の織田信長像)
第106代天皇 正親町(おおぎまち)天皇⑮ 在位期間1557年~1586年 なお、「⑮」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系15代遡る」という意味です。
方仁(みちひと)親王。後奈良天皇⑯の第2皇子。後陽成天皇⑬の祖父。
1517年生まれ。40歳(数え41歳)で即位。朝廷財政窮乏のため、即位の礼は即位3年目に毛利元就からの寄付で行われた。
1568年織田信長が上洛し、朝廷財政を回復させた。その一方、長期戦で講和を成立させたいときに正親町天皇の勅命による講和という手法も用い、朝廷の権威を利用した。
なお、信長は1581年京都馬揃え(きょうとうまぞろえ)のころに第1皇子・誠仁(さねひと)親王⑭への譲位を正親町天皇に促していたという説と、逆に反対していたという説がある。
信長が東大寺正倉院にある香木の蘭奢待(らんじゃたい)を少量切り取らせたエピソードも有名だが、足利義満&義教&義政も切り取らせており、2006年(平成18年)の大阪大学の調査では切り取り跡は38か所&のべ50回以上と推定された。
時代の流れで、戦後は「革命」人気が高かったが、現在は以前ほどではない。これに連動し、戦後は信長の革命家としての側面が強調されてきたが、現在は以前ほどではない。こうした事情を無視できず評価が難しい。
豊臣秀吉も信長のアイデアを踏襲し、さらに、支配の権威として関白に就任したため、より権威を高めるべく朝廷の威信回復に努めた。
こうして朝廷の財政と権威はようやく上向きになった。
1586年皇太子(第1皇子)・誠仁(さねひと)親王⑭が急死。同年誠仁親王の第1皇子・和仁(かずひと)親王(後陽成天皇⑬)に69歳(数え70歳)で譲位した。75歳(数え77歳)で崩御。
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1558年エリザベス1世(Elizabeth Ⅰ)が即位(~1603年)。
(愛知県名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園にある、織田信長と今川義元の像)
1560年6月12日(永禄3年5月19日)、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討つ。
★太田牛一(おおたぎゅういち)著『信長公記(しんちょうこうき)』の、桶狭間の戦い出陣シーン
此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生(ひとたびしょう)を得て滅せぬ者のあるべきか、
と候て、螺(ほら)ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召(おんもののぐめ)され、たちながら御食(みけ)をまいり、御甲(おんよろい)めし候ひて御出陣なさる。
(口語訳)このとき信長は、「敦盛」の舞を謡い舞った。
「人間界の50年は下天の一昼夜にすぎず夢幻のようなものだ。
この世に生まれてきて死なない者などいない」
そう謡い舞うと、「法螺ふけ!具足よこせ!」と叫び、具足をつけ、立ちながら湯漬けを食べ、甲冑をつけて出陣した。
(愛知県豊明市にある、桶狭間古戦場伝説地)
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1561年第4次川中島の戦い。上杉謙信が武田信玄に切りつけたという。
(長野県長野市の川中島古戦場にある、武田信玄と上杉謙信の像)
1564年ルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti)が88歳で没。
1565年13代将軍足利義輝が三好氏&松永久秀(まつながひさひで)勢力に殺害される(永禄[えいろく]の変)。
1566年毛利元就が尼子氏を滅ぼす。
1567年伊達政宗誕生。
(宮城県仙台市青葉区の仙台城址にある、伊達政宗騎馬像)
1567年信長が美濃を攻略。
(岐阜県岐阜市にある、岐阜城。美濃を攻略した信長は城と町の名を「稲葉山」から「岐阜」へと改めた。現在の天守閣は1956年[昭和31年]に完成した鉄筋コンクリート造りの復興天守)
1568年三好氏に擁立された足利義栄(あしかがよしひで。11代将軍義澄の孫&義輝の従弟)が第14代将軍に就任。しかし7か月後に信長に擁立された足利義昭(あしかがよしあき。義輝の弟)が室町幕府第15代将軍に就任。この擁立のとき明智光秀が活躍したという。
1570年信長は越前の朝倉義景を討ちに行くが途中で浅井長政が裏切ったと知り撤退戦となる(金ヶ崎の戦いor金ヶ崎の退き口)。同年姉川の戦いで信長&徳川家康が浅井&朝倉軍を破る。
1571年毛利元就が74歳(数え75歳)で没。同年信長が比叡山延暦寺を焼き討ちする。
1571年レパントの海戦でスペイン・ヴェネツィア連合艦隊がオスマン帝国艦隊を破る。
1573年武田信玄が51歳(数え53歳)で没。同年信長が将軍義昭を追放し室町幕府滅亡。同年信長が朝倉家と浅井家を滅ぼす。
(山梨県甲府市にある、武田信玄像)
1575年長篠の戦いで信長&徳川家康が武田勝頼を破る。
1578年上杉謙信が48歳(数え49歳)で没。
(新潟県上越市の春日山城跡にある、上杉謙信像)
1581年オラニエ公ウィレムを指導者としユトレヒト同盟を結んでオランダ独立戦争(1568年~1648年)を戦っていた北部7州が独立宣言しネーデルラント連邦共和国(オランダ)が成立。
1582年3月信長&徳川家康が武田家を滅ぼす。
このとき武田家の菩提寺だった恵林寺(えりんじ。現、山梨県甲州市)は織田軍の焼き討ちにあった。恵林寺の住職・快川和尚(かいせんおしょう。快川紹喜[かいせんじょうき])は、燃え盛る火の中で、晩唐の詩人・杜荀鶴(とじゅんかく ドゥー・シュン・フー)の漢詩にちなんだ辞世の句を唱えたという。
★杜荀鶴の七言絶句(しちごんぜっく チー・ヤン・ジュエ・ジュー)『夏日題悟空上人院(シャー・リー・ティー・ウー・クン・シャン・レン・ユゥエン 夏日悟空上人の院に題す かじつごくうしょうにんのいんにだいす)』
三伏閉門披一衲 サン・フー・ビー・メン・ピー・イー・ナー
兼無松竹蔭房廊 チェン・ウー・ソン・ヂュウ・イン・ファン・ラン
安禅不必須山水 アン・チャン・ブー・ビー・シュン・シャン・シュイ
滅却心頭火亦涼 ミエ・チュエ・シン・タオ・フオ・イー・リャン
三伏門を閉ざして一衲を披く(さんぷくもんをとざしていちのうをひらく)
兼ねて松竹の房廊を蔭らす無し(かねてしょうちくのぼうろうをかげらすなし)
安禅必ずしも山水を須いず(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず)
心頭滅却すれば火も亦涼し(しんとうめっきゃくすればひもまたすずし)
(口語訳)一年で一番暑い三伏の時期に門を閉ざして僧衣をきちんと着ている。
そのうえ部屋には木陰となる松や竹もない。
でも禅の境地は必ずしも山水を必要としない。
心を整え雑念を消し去ってしまえば火でさえ涼しく感じられるのだ。
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★恵林寺の快川和尚の辞世の句
安禅不必須山水 アン・チャン・ブー・ビー・シュン・シャン・シュイ
滅却心頭火自涼 ミエ・チュエ・シン・タオ・フオ・ツー・リャン
安禅必ずしも山水を須いず(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず)
心頭滅却すれば火も自づと涼し(しんとうめっきゃくすればひもおのづとすずし)
(口語訳)禅の境地は必ずしも山水を必要としない。
心を整え雑念を消し去ってしまえば火でさえ涼しく感じられるのだ。
1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変。明智光秀に急襲され、織田信長が47歳(数え49歳)で没。
1582年7月2日(天正10年6月13日)、「中国大返し」で戻ってきた羽柴秀吉が山崎(やまざき)の戦いで明智光秀を破る。同日、光秀は落ち武者狩りで殺害される。享年数え55歳(?)。
1582年7月16日(天正10年6月27日)清洲会議。秀吉が主導権を握る。
(愛知県清須市にある、清洲城。1989年[平成元年]に清洲城跡の隣接地に建設された模擬天守)
(イースター[Easter 復活祭]は、春分以後の最初の満月の次の日曜にあたる。キリストが十字架にかけられ3日後に蘇ったことを祝う。)
1582年10月15日、ローマ法王グレゴリウス13世がグレゴリオ暦を施行。
最新科学では真の1年は365.242189572日。当時使用されていた4年に一度閏(うるう)年を置くユリウス暦は1年の平均日数が365.25日であったため、この暦法に従って閏日を置いていると、128年で約1日の誤差を生じる(真実よりも暦が遅れている)。16世紀終わりころになると実際の季節と相違をきたし、真の春分は3月11日だったのに対し325年にニカイアの宗教会議で定められた3月21日は10日も遅れた状態となった。
グレゴリウス13世は、真の春分が3月21日となるように10日間を省いて10月4日の次の日を15日とし、将来も相違が起きないようにするため、4年に一度閏年を置いたそれまでの置閏(ちじゅん)法を改め、「西暦紀元年数が4で割り切れる年を閏年とする。ただし100で割り切れる年のうち400で割り切れない年は平年とする。閏日は2月28日の次の日に置く」とした。これをグレゴリオ暦という。
この置閏法によると1日の平均日数は(365日×303+366日×97)/400=365.2425となり、3221年で約1日、1万年で約3日の誤差を生じる。1万年で3日の狂いは実際問題として日常生活の妨げとなるほどのものではない。
日本では明治5年12月(1872年12月→1873年1月のとき)に採用され、旧暦明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日=グレゴリオ暦の1873年1月1日とした。
1582年イタリア人のイエズス会宣教師マテオ・リッチがマカオに赴任し中国での布教に成功していく。
1583年秀吉が賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破る。同年大坂城の築城開始(~1598年)。なお江戸時代中期は「大坂」「大阪」表記併用、「大阪」表記と正式に決まったのは1868年(明治元年)。
(大阪府大阪市中央区にある、大阪城。現在の天守閣は1931年[昭和6年]に完成した鉄筋コンクリート造りの復興天守)
1584年小牧・長久手の戦い。
1585年秀吉が関白宣下を受ける。
1585年天正遣欧少年使節がローマ法王グレゴリウス13世に謁見。1582年~1590年の行程で、以下の4人。
・伊東マンショ:大友宗麟の血縁で名代。1612年長崎で没。
・千々石ミゲル(ちぢわみげる):大村純忠の名代で甥。有馬晴信の従弟。1601年棄教し1633年没。
・中浦ジュリアン:1633年に殉教。
・原マルティノ:1629年追放先のマカオで没。
1586年秀吉が豊臣の姓を与えられる。同年徳川家康が大坂城で秀吉に謁見し諸大名の前で臣従を表明する。
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(雑感)
今日のお題は「織田信長について」「豊臣秀吉について」「2020年(令和2年)の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀について」「『心頭滅却すれば火もまた涼し』について」です。
このうち、織田信長と豊臣秀吉と明智光秀は、「私よりよく知ってらっしゃる方が多いでしょう。コメントは差し控えることにします」パターンです。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」といえば、まず、
「暑いのにクーラーがない状況で誰かがこのセリフを言う。そんなテレビ番組、何度も見た気がするけど、思い出せない・・・」
ってことが浮かびます。
それはともかく、大事なのは、広い意味での「心を整える」こと。
実は。
物心ついた頃から嗅覚が全くない私には、私ならではの、「心を整える」術があります。
それは、「俺は世界一」と「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、・・・」みたいに繰り返し唱えること。
「なんだそりゃ」
「は?それだけ?」
と思われるかもしれませんが、これが実に使えるのです。
何しろ、私は「どんな臭い匂いも平気。このことなら絶対に世界一」ですからね。
全く同じ嗅覚障害の人がいたとしても、引き分け、世界一タイ記録です。
世界一の得意技があるのに、忘れた方が良い些細なことなんて、クヨクヨしてられません。「俺は世界一」と繰り返し唱えてるうちに、ホントに忘れてしまうのです。
嗅覚障害は私にとって大きなマイナスですが、このことは数少ないプラス、ささやかなプラスです。















