先日、街で昔ながらの床屋さんを見かけた。
店の正面ガラスに「〜理髪店」と誇らしげ
に大きく描いてあり、中には想像通りの
ご老体の店主が暇そうに新聞を読んでいる。
懐かしく思い、繁々と店を物色してみると、
入り口横に、昔の床屋の店先に必ず置いて
あった、赤色と青色と白色の回転する
ディスプレイが古色を帯びてひっそりと
鎮座していた。
(今ではすっかり見なくなったなぁ…)
と眺めていると、不意に16世紀に活躍した
フランス人外科医であるアンブロアズ・パレ
を思い出した。
いや正確に言えば、理髪外科職人のパレと
言わねば本人に怒られそうである。
驚く事に16世紀頃までは、ヨーロッパの
人体解剖や外科手術は医師が行わず、
「理髪外科職人」と言われる職人が、本職
の床屋も行いながら外科的処置を任せられ
ていた。
(ハサミの扱いが上手いという事だろうか…)
勿論、当時の外科技術では簡単な、でき物を
切除するぐらいである。
また医学の授業の一環として死体解剖がある
が、理髪外科職人達は大学の教授達の解説に
合わせ解剖を行なった。
外科の教授達は決して自ら手を汚す事は
しなかった。
中世ヨーロッパでは、手に汗する労働は
職人階級がするもので、貴族や知識階級が
行うものでなかった。
フランス語やドイツ語の外科という言葉は
手仕事という意味で、外科医は内科医よりも
随分と低く見られていた。
理髪店のディスプレイは赤色は動脈、青色
は静脈、白色は包帯を表しており、中世
ヨーロッパ理髪店の名残である。


アンブロアズ・パレは1510年にフランスの
小村に生まれ20歳を過ぎるとパリの
理髪外科医に徒弟奉公に出た。
理髪外科職人の技術は個々の職人達が弟子達
に自分の経験を伝えていくもので、
パレの親方は腕が良かったのか、数年も
過ぎると、ヨーロッパ最古の大病院である
パリのオテル・ディユ病院に住み込みとして
働いていた。
ここで本格的な外科の修行を積んだパレは
1537年のフランスとドイツとの戦争に、
将軍の外科医として採用され従軍した。
そこでピエモンテの大会戦に遭遇したパレは
初めて銃撃戦を目にし、銃創の治療に当たる
事になった。
当時の銃創の治療法では、火薬の毒性が創傷
を悪化させると考えられ、焼鉄で傷口を焼く
か、糖蜜を加えた西洋ニワトコの精油を沸騰
させ、傷口に流し込み火薬の毒性を消すと
いう今、考えてみればとんでもない治療で
あった。
イタリアの医師であるジョバンニの治療法
であるが、パレは甚だ疑問を抱いた。
しかし先輩医師達に従い治療を行なっていた
が、傷病者は次から次へと運ばれて来た為に
精油が無くなってしまった。
彼は自分の経験から従来の治療法を止め、
卵黄、バラ油、テレビン油を混ぜたものを
銃創に塗って治療した。
その夜、パレは自分の治療法への不安と恐怖
で眠れず、一心に神に祈りを捧げた。
翌日の早朝からパレは新しい治療法を試した
患者たちを見て回った。
従来の処置をされた患者たちは激痛と発熱、
炎症の為、呻いていたが、パレの治療を
受けた患者たちは、痛みと炎症もなく良い
経過を示していた。
驚いたのは先輩医師達よりも周りの患者達
で、争ってパレに治療を求めて来た。
パレの治療法はフランス軍に採用され、
やがて各国の医者達もそれに倣った。

その後も従軍医として軍隊外科の知識と経験
を積んだパレは1545年に「銃創の処置法」
を出版すると、パリ大学のシルヴィウス教授
に高く評価され、シルヴィウスの解剖助手と
して招かれた。
一介の理髪外科職人がフランス最高学府の
教授助手となる事は、この時代考えられ
ない事だった。
さぞかし風当たりが強かっただろうが、
パレは医学における解剖学の重要性を痛感
し、ラテン語が読めない理髪外科職人達の
為に、解剖学の名著であるヴェサリウスの
「人体の構造」をフランス語に訳して出版
した。
パレは正規の医学を学んで医師組合の会員
となっても、自分が理髪外科職人であった
事を誇りに思い、彼らの待遇改善の為に
努力した。

パレは理髪外科職人であるが故、当時の
医学者達が信じてやまないガレノス医学や
ユナニ医学などの古い学説を信じるよりも、
人体解剖で目にした自分の経験や知識を
迷いなく何よりも信じた。
そしてそこから自由に新しい様々な治療法を
数多く考案した。
骨折や脱臼の処置法、ヘルニア手術法、
気管切開法、痛風治療法などがあり、
中でも従来の止血法の代わりに動脈を糸で
くくる血管結紮法は多くの失血死患者を救い
その後の医学に大きく貢献した。

1562年にはフランス国王シャルル9世の
筆頭外科医となり名声を高めても、パレは
驕る事なく、一人一人の病人に優しく接し
た。病床のシャルル9世が「どの患者よりも
優しく献身的な治療をして欲しい」と言うと
パレは「それは出来ません、どんな哀れで
貧しい患者でも国王と同じ手当を私はして
います」
と胸を張って言った。国王はパレを更に尊敬
し信頼を深めた。
1582年に、これまでの医学経験を網羅した
パレ全集を出版し更に名声を高めたが
その中に「私は包帯をしただけで神が治し
てくれたのです」という一説がある。
パレは最後まで傲慢にならず患者の事を
差別する事なく優しく接した。
しかし、彼をたかが理髪外科職人に過ぎな
いとパレを批判した伝統主義者のグルムラン
に対しては、
「哀れな先生よ、貴方は私にどんな外科術を
教えられるというのか?貴方はただ部屋で
椅子に心地よく座り、過去の医学書を読んで
人を蔑む事を研究しているだけである」と
(王の助言者で、第一の外科医師 
アンブロアズ・パレ)の名前で、理髪外科医師
を差別する大学出の医師達に、誇りを持って
反論した。
パレの業績により、その後の医学には解剖学
は必須となり、そこから身体の各器官の働き
を解明する生理学が発展し、やがてその器官
の疾病を考察する病理学が台頭し西洋の
近代医学の礎となった。
またパレの業績は日本にも伝わっている。
高名な杉田玄白と前野良沢の「解体新書」
はクルムスの解剖書の蘭語版を翻訳した
ものである事は知られているが、その他
にも数種類の蘭学医書を参考にしている。
その中に「アンブル外科書解体篇」が
あるが、これはアンブロアズ・パレ全集
の蘭語版の一部であると言われている。
「解体新書」付図の手背・手掌・足背・
足底の筋肉や腱の図はパレの本を模写
したもので「アンブル」の符号が記されて
いる。
パレの業績は200年の時を超え、遥か極東
アジアの日本にまで影響を与えている。

私生活でも9人の子供に恵まれたパレは
最後まで理髪外科医師として研鑽したが
皮肉にも彼の頑張りに寄って医学に解剖学
の必要性が周知され、医師達も自ら解剖を
行う様になった事により、理髪外科職人達
の需要が無くなり、やがて歴史の中に埋もれ
ていった。

この懐かしい床屋の回転ディスプレイを
持つ理髪店を見ていると、パレ後の
理髪外科職人達の運命と重なる様な気が
して、時代の無情さを感じたが、この様な
事は歴史の中では、よくある事なのかとも
思ったりもした。