建築の世界にはいくつもの階段があって、或いは小道があって、思考の深化の度合いが違う。

 

やっぱりうちの仕事は、使い勝手が良くて気持ちのよい平面構成をするリフォーム屋さんだ。今のところ。でもそれで良い。多分そこが、現代の日本で一番切実に必要とされている。なのに誰もやっていない。ハウスメーカーの変な間取りの、変な仕上げの家をがらりと変えるだけで、本当に感激される。一昔前なら、誰もが自分たちで、あたりまえのようにやっていたはずのことだ。日本では何故か、みんなそれを忘れてしまった。家が、車と同じように、商品となって様変わりをしてから。

 

でも、ほんの少しだけれど、学校で建築を学んでみて、というか触れてみて、世界を見る目が、たぶん、ほんの少し変わった。空気や気配や、その動きに敏感になった。光と風を、如実に感じるようになった。高さの違いで(断面方向)、世界が変わることに気がついた。

 

静が動を呼ぶことを知った。それは世界が生きているから。

 

機械を勉強してきた自分は、建築だって、もっとアクティブに動かせば良いのにと考えていた。夏と冬で衣替えすれば良いのに。夏は庇を出して、冬は引っ込めれば良いのに。何で接着とか、ビス止めをするんだろう。ボルト・ナットを使って、壁もぽこぽこ取り外せるようにすれば良いのに、それで断熱材の詰替えとか電気配線のやり替えとか、改造が簡単にできるようにすれば良いのに。(そんなの、お金がかかるからやらないんだ、当たり前だろう。でも10年単位のメンテを含めたLCCで考えれば、もしかしたら安いかも)

 

何ら動力をもたない建築は、どこまでもパッシブだ。しかし、ただいつまでも静かに "存在" し続けるだけなのか、というと、それは違う。生きた世界の中にあるから。

 

太陽が動く。光と影が動く。熱が生まれる。涼が生まれる。空気が動く。風が流れる。温度差があれば、上に昇る、下に落ちる。空気の道があれば、その幅によって、速くなり、遅くなる。柱が1本ある。どこからともなく人がやってきて、そこによりどこる。もたれる。回り始める。壁が1枚ある。沿う。相対する。2枚ある。動線が生まれる。方向が生まれる。ガラス張りの通路を、外から直角方向に観察していると面白い。軸線方向へ進むことに集中しているので、全く気付かれない。身体の向きと視線の向き。1枚の壁が荒野に立てば、両側のお互いの姿は知覚できず、でも気配は横から、上から、回りこむ。とにかくにも、生きている世界に静なるカタチを置けば、それに呼応して動なるドラマが生まれる。

 

アフォーダンスという概念を、機械科にいる時に学んだ。ところが、建築の世界に入ってみて、10倍それが "見える" ようになった。アフォーダンスというのは、生物と静物との間に生まれる関係性の可能性、それを生み出す静物の属性のことです。これだと全く意味が分からなくても、具体例を上げればすぐ分かる。

 

ブロック塀のブロックが1段だけの高さ(19cm)で延々と続いている。子どもなら絶対にその上に上って歩きだす。自分も。40cm の高さの上面が平らな石がある。座る。1m x 2m の広さがある。寝る。穴がある。入る。こういうのを「1段で続いたコンクリートブロック塀は、(子どもとバカな大人が)その上に乗って歩くことをアフォードする」、「穴があったので入ることをアフォードされた」というように言う。人をアフォードする。光と風と水をアフォードする。これは正に、建築の世界の言葉だ。それは、建築というものが、人が生きる上での身体の動きを、全てまとめて引き受ける世界だからだ。

 

もう一つ。視覚偏重のこの世界だけれど、人は全ての五感とその総体を駆使して世界を認識している。人はこれを、簡単に忘れてしまう。真っ暗闇を裸足で歩く。床の仕上げの違いが、昼間の10倍の意味を語る。実に雄弁に。壁の裏に立って、少し向こうにガラスを立てる。背にした壁の反対側がガラスの端にちらりと映って見える。音も聞こえる。気配が通過する。それはどうして感じる?視覚?聴覚?触覚?多分、その総合的なものだ。

 

目から情報を入手して脳で処理する。そこから一度、意識的に離れた方が良い。身体全体で感じて心で受け止める。それを、注意深く観察する。

 

学べる機会に恵まれたら、深く、深く、学べ。

 

大丈夫。この世界には底がない。

 

 


以上、これは6年前にとある場所で書いた文章です。かなりの躁状態に入っていた時期だったので、荒削りではあるけれど、思い立ってからあっという間に書き上げてしまった。とある場所、、ってのは、5年ぐらい前に垢ごとかなぐり捨ててしまったfbですが、、何とか心奮い立たせて開きに行って、捨てるには惜しいな…と思っていたこの投稿だけでもと、救出してきました。