ブログの読者登録させてもらっている方の多くが3月11日について書かれているので、自分も2年前のあの日を振り返ってみようと思う。


2011年3月11日金曜日、その日は当時通っていた建築デザインの専門学校の昼間部(フルタイムのクラス)の2年生の卒業前の最終課題の発表日だったので(自分が行っていたのは土曜日だけのクラスで当時1年生)、仕事をお休みしてお昼から学校のある中野に出向いていた。フルタイムのクラスの発表で課題も一番気合が入っているし、実に見応えもあった。昼の1時から始まって何人かの発表が終わり、ちょうど最初の休憩に入ったところ。外に出て、同じビルの1階に入っているローソンで何か飲み物でも買おうと思っていた時に揺れが始まった。

あ、、地震だ、、。店内にいたおばちゃんと顔を見合わせる間もなくどんどんと激しくなる揺れ。店員さんも慌て始めたと思ったら、棚に置いてあるものが倒れ始めた。

「これ、ちょっとヤバイですね、、外出たほうがいいですね」と誰彼ともなく表の通りに避難する。横揺れは大きくなるばかりで止まる気配もない。電信柱が激しく揺れている。ローソンと学校の入っている、コンクリートの6階建てのビルがビシビシと音を立てる。駅の方に目をやると中層のガラス張りのビルがぐらぐらと揺れている。ヤバイ、、こんなの初めてだ。

ひとまず揺れが収まって部屋に戻ると、徹夜続きで準備をしていた学生たちは、その興奮に地震の興奮が重なって騒然としている。しかしスケジュール通り進めよう、、ということで途中大きな余震を1回挟みつつも、発表が全て終わったのは夜の9時。夕方頃に抜けて帰宅したはずの見学組が戻ってくる。電車が全く動いていないらしい。教室にはテレビもないし、誰も東北地方の惨状を知らない。そして誰の携帯も全くつながらない。

もちろん最終発表の後は盛大に打ち上げだ、ということで事前に予約してあった飲み屋へ繰り出すと、中野の飲み屋街は何時にもましてざわざわしていた。震源は東北らしい、大きな津波が来て仙台空港が丸々さらわれたらしい、途中から駆けつけた新宿の高層ビルで働いていた人によると大揺れの中でガラスがビシビシと悲鳴をあげていて恐怖だったらしい、、そんな断片的な情報だけを耳にして呑気に飲み続けていた。途中、駅まで様子を見に行くと駅前の広場に大勢の人がうごめいている。公衆電話には長蛇の列。テレカは持っていたのだけれど、電話は無料で繋がった。実家に電話して家族の無事を確認。

同じく発表を見に来ていたクラスの友人が東中野に住んでいたので、その夜は泊めてもらうことにして、帰れない人たちは学校に戻って雑魚寝することになった。昼の地震からずっとざわざわとしていて気が立っている。夜中に友人宅に着くと、彼もテレビを持っていないのだが、まずはパソコンを貸してもらう。FacebookやTwitterのタイムラインが荒れている。海外の友人からも沢山のメッセージが。ひとまず無事だと返事をする。名古屋も大阪も揺れていたことを知る。そして、TV局がUstreamで放送を配信しているのを見つけて、そこで初めて目にした津波の衝撃の映像。しかし小さな画面なのでよく分からない。電気を消すが寝付けない。夜中じゅう収まらない余震。

朝になって起きると地下鉄は動いていた。人はまばらだったけれど、誰の顔も落ち着かない。とりあえず近場へ、と思って会社の事務所に向かう。そこで兄夫妻に出会う。表参道の辺りに出ていて地震に遭い、ここまで歩いてきて一泊したらしい。電車も動いているので家に帰る、と別れて、自分はパソコンを立ちあげ、やはりUstで流れるTVニュースに釘付け。丸一日経って、漸く地震・津波被害の全貌をおぼろげに掴む。しかし、福島第一原発が水蒸気爆発を起こし、東京が束の間の機能不全に陥るのは、もう少し後のことだった。


人は見事に忘れゆく動物であるというのを、今自分が自覚しています。しかし、家族や友人を失くした人の悲しみ、悔しさ、喪失、そして2年経った今でも生活が戻らずに東北で必死に生きている多くの人が居ること、被災した土地がまだまだ復興の途上にあること、自分も心に留めて生きていきたいと思います。

この震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。