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jun08301008さんのブログ

昨年末に終わってしまった15年に渡る前頭側頭型認知症の実母の1人在宅介護、実母の激しく奔放な性格変化の中にも明るく可愛げのある人間味に救われてきた介護記録

両親と子どもはいつか心配する立場から心配される立場に攻守逆転する時が来ます…と思っています。


私が結婚してから数年が経ち、父と母が助け合いながら商売をし休みの時は一緒に温泉旅行と晩年を楽しんでいた様子に安心していた時期もありました。

そんな時期を経て母の前頭側頭型認知症の発症があり、仲が良かったはずの夫婦という名の他人はメンタルが試される時を迎えるのだなぁと客観的に思ってました。

私は子供として親の老後は逃げられない事と、兄が病で早逝してしまった時から覚悟はありました。が、もう少しどちらかがしっかりしていてくれると助かったのですが、かたや病で性格変容の母、かたや年齢だけ老成してメンタルは弱弱の父。悪口ではなく子供を持たない私ですがいっぺんに生活サポートが必要な子供もどきが2人も出来てしまいました。


父が通う診療所から呼び出されました内容は、最近頻繁になった栄養補助の点滴治療がある事と、思い切って栄養調整のための入院治療をしたらどうかという提案でした。

父は好き嫌いが言えるので好みに合わせた食事を用意していたつもりでした。今になると理解できますが、老人は摂取した栄養がちゃんと吸収されないらしくアルブミン数値が下がっていました。もともと痩せ型で脊柱管狭窄症で背骨も丸くなんとなくかわいそうな印象もあり、診療所の提案を受け、奔放な母との厳しい生活(父のお世話をしない奔放な母と向き合う)から離してみることにしました。

私は、病気になった母をかわいそうなと感じるより今の母をありのまま受けとめる事が大事だと思いました。今まではこうだったのにと嘆いたとて戻って来ないことは明白だし母が受け入れられてない自分を感じてたらどんなに不安で寂しいだろうと思うから。

でも、今まで続けてきた体操サークルや水泳などは私が付き添いながらも出来る限り続けようと努力しました。社交的で身体を動かす事が大好きだった母の身体は、まだ病気による身体能力の弊害はなく、態度は落ち着かない子供みたいなところがあり、同年代のお仲間にはご理解頂きながらの参加をしました。水泳に関しては、私が一緒に行って着替えを手伝ったりしましたが、泳ぎはとてもキレイな平泳ぎやクロールが出来ました。

スイミングがお休みの期間は一緒に区民プールに行ったりと母の脳や身体能力を刺激して衰えを遅くする様に務めました。

気がつくと、私の生活は実家の父、母が中心になっていきました。

もちろん主人には、母が発症した時に、半端なかかわり方は出来ない事、母の症状から施設対応が難しい為、在宅介護がメインになる事の覚悟を伝え、了解を得ました。

どんな道のりを歩むのかの不安よりも目の前に起こる事に対応していくのが精一杯の日々がスタートです。



☆人生は期待どおりにいかない…父の誤算


父は、母よりも11歳年上で脊柱管狭窄症を患う老体ながら働き者だった母の労働力の下支えがあり、細々と自営業を続けていた。当時、82歳の父が母の性格変容を伴う前頭側頭型認知症を受けとめる事が難しかったようです。

最初の頃は、同情があったのか、外食に連れて行ったりと優しい行動をとっていた。母はそういった父の行動も忘れてしまい父が夫という事は分かるがだんだん小学生のいたずらの様に困ってる父を見て助けるどころか笑いながらその場から走り去ってしまったり、父をいたわる事が出来なくなってしまってました。

食肉販売店を営んでいたが、母が役割分を働けなくなり、私もまだ仕事をしていて、軽率に手を貸し、病人を抱えてながら商売は無理と判断しました。

当時、長年脊柱管狭窄症を患っていた父に廃業を提案しました。店を閉じる事に寂しさはあったようですが、私にとっては80歳も過ぎて辞めどきも考えてない事の方が自分の人生に無計画過ぎると感じてました。本人にはいわなかったけど…

父はきっと年下の身体丈夫な母に全てを任せて老後の面倒を見てもらうつもりだったと推察出来ます。

人生に困難や想定の範囲を超える出来事が来るなんて考えなかったおめでたい父でしたので逆境にはめっぽうメンタル弱弱の単なる高齢者でした。


前頭側頭型認知症を患って今までの優しく働き者の母ではなくなってしまった現実をこの家の因縁が…と言い出す始末だし。トホホな感じです。

 父には、介護認定で要支援が出たので母とずっと同じ家に居続けるのもメンタルによくないとデイサービスに行って貰うようにしました。若干抵抗感はありましたがお誕生日イベントやお食事など家にいるより気分転換が出来たようです。

母は、奔放に家を飛び出して、昔から馴染みのお買い物コースの商店街や台東区上野界隈を徒歩で歩き回っては戻って来るという日々でした。

アルツハイマーとは違い、道を忘れてしまう事はなかったので助かりました。

なんとなく2人の生活のペースが出来、私の支援も仕事終わりからと実家での夕食作り、お昼のおにぎり用意などでやっていけるかと思ってました。

そんなとある日、父はデイサービスを辞めると言って来ました。理由を聞いてみるとサービス内容は変わらないのに料金が上がるのが納得出来ないという事でした。変に細かいところがあるAB型の父の発言は今までも理解し難く扱いづらくて勝手にしてと諦めました。

数日がたち、日頃行きつけの診療所より父の体調について話しがあると呼び出されました。




もう、15年も前からの記憶を少しづつ紐解いて母の生き様と一緒に生きた私の思いを綴り、残しておこうと思います。


第1章 母が…ある日、やんちゃな小学生に?

☆人格の変化は突然に。


仕事中、父より電話があった。母が転んで頭を打って、旅行から帰って来たと。実家に行ってみると、わりあい元気そうな母が『大丈夫よ』と言って恥ずかしそうにしていた。

父は、私に母が通ってるスイミングクラブで一緒の近所の奥さんから少し母の言動や態度が変でもしかしたら『認知症』では?と言われたと伝えてきた。当時、私はあまり実家に頻回に行ってなかったので母の変化についてピンと来ていなかった。その時は、そうなんだと思っただけで特に行動は起こさなかった。

ある冬の早朝、父より電話があった。なにごとかと聞いてみると、母が冷たいお風呂の湯船に浸かったまま、出て来ないと。立て篭り?いよいよ、奇異な行動が始まったようだった。私はすぐに実家に向かうと未だ母は冷たい湯船に入っていた。引っ張りだそうとしてもテコでも出ないので湯船の水を抜いて、無理やりなんとか母を出して、バスタオルで拭いて温めようとしたら、息苦しいと訴えだした。ただ事には感じられず救急車を呼び、病院へ。長い間冷たい湯船な浸かり脱水症状となってしまってた。救急で点滴を受けた。フッー前途多難。

この時この現実に向き合う事に少しの覚悟を持ったのを覚えている。

母の性格が変容してきた事を目の当たりにし、専門科の受診を考えました。日頃母が通っていた診療所に最も近くの有名な国立の大学病院の紹介状をもらいました。当時は思わなかったのですが、なぜ老年病科ではなく精神科の紹介状だったのだろうと今でも理解出来ないくらい当時の町医療は認知症について扱いがわかってなかった様だ。

長谷川式という認知症のテストやMRI、脳の血流の検査とひと通りやってみての診断は『前頭側頭型認知症』という事だった。『前頭側頭型認知症』とは、性格変容を伴う症状でが主にあり、アルツハイマーの様に道を忘れて迷ったり、ごはん食べたの忘れたりはあまりなかった。

2006年、認知症初期の母は認知症の症状が出ていない時と症状真っ只中の時の斑状態だった。まともに戻ってる時は、自分の病気を嘆き、不安の只中にいたようでした。お願いしているヘルパーさんになぜこんな病気になってしまったのかとグチを聞いて貰ってたそうだった。

83歳の父を元気づけながら2人で母を支えようと話し、お互いの役割をノートに書き出し、頑張ろうねと伝えた。この時、2人は認知症の知識もなく、ただ家族に起きた病を助けて行く事を考えていた。


母の症状は身体的には、すこぶる元気で徘徊と呼ぶには明る過ぎる、まるで小学生がランドセルを投げ出して遊びに行くような軽快さと楽しそうな雰囲気で飛び出して行った。