玄関で靴を履こうとした、その朝、視線の端に小さな銀色の筒が転がっていたの。
見覚えのない口紅。
キャップを外すと、澄んだ赤が朝の光を弾いたよ。
「誰のだろぅ」
特に理由もなく、ほんの出来心で唇に触れさせた瞬間、空気が柔らかく折れ曲がった。
鏡に映ったのゎ、もう“いつもの自分”でゎない。
肩まで落ちる髪ゎ、均一に揃った前髪からなだらかに流れ、艶のある栗色。
頬にゎ薄く仕込まれたチークが自然な血色を灯し、まつ毛ゎカールして影を落とす。
口紅ゎ赤と言っても強すぎず、輪郭を丁寧になぞることで、笑みの形まで整えていた。
服装ゎ、青と白のギンガムチェックのワンピース。
胸元ゎ浅いスクエアカットで、飾りボタンが縦に並び、ウエストで軽く絞られている。
生地ゎ柔らかく、身体の線に沿って落ち、座るとスカートが膝の上で静かに波打つ。
肩ゎ露出しすぎず、腕の白さが際立つ絶妙なバランスで「きちんと可愛い」という言葉に収まっていた。
身体の感覚が、少し遅れて追いついてくる。
重心が低くなったような、でも軽い。
胸の前に確かな重みがあり、呼吸に合わせてわずかに揺れる。
手首ゎ細く、指先は丸みを帯び、力を入れるときの“入れ方”が分からない。
声を出そうとすると、喉の奥で音が高くなる予感がして、思わず声にするのをためらった。
怖さゎ、最初の一拍だけ。
次に来たのゎ、不思議な静けさ。
世界がこちらをどう見るかよりも、こちらが世界にどう触れるかが変わっている。
ドアノブの冷たさがやけに繊細に伝わり、風が肌に描く輪郭が細かい。
鏡の中の私ゎ、戸惑いながらも、どこか落ち着いて立っていた。
「戻れるのかな」
口紅を拭えば元に戻るのかもしれない。
けれど、今はその答えを急ぎたくなかった。
玄関を出ると、朝の光がギンガムチェックに小さな影を作る。
足取りゎ慎重で、でも前に進む意志ははっきりしていた。
一本の口紅が、身体を変えた。
それ以上に、世界との距離を、少しだけ近づけた気がした。
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