玄関で靴を履こうとした、とある朝。
視線の端に、小さな銀色の筒が転がっている。
見覚えのない口紅。
キャップを外すと、澄んだ赤が朝の光を弾いた。
「誰のだろぅ」
理由もなく、ほんの出来心で唇に触れさせた瞬間、空気が柔らかく折れ曲がった。
鏡に映っていたのゎ、もぅオトコの自分ぢゃない。
肩まで落ちる髪ゎ、均一に揃った前髪からなだらかに流れ、艶のある栗色。
頬にゎ薄く仕込まれたチークが自然な血色を灯し、まつ毛ゎカールして影を落とす。
口紅ゎ赤と言っても強すぎず、輪郭を丁寧になぞることで、笑みの形まで整えていた。
服ゎ、青と白のギンガムチェックのワンピース。
胸元ゎ浅いスクエアカットで、飾りボタンが縦に並び、ウエストで軽く絞られている。
生地ゎ柔らかく、身体の線に沿って落ち、座るとスカートが膝の上で静かに波打つ。
肩ゎ露出しすぎず、腕の白さが際立つ絶妙なバランス。
足元ゎシンプルで、全体が「きちんと可愛い」という言葉に収まっていた。
身体の感覚が、少し遅れて追いついてくる。
重心が低くなったような、でも軽い。
普段ゎない胸の前に確かな重みがあり、呼吸に合わせてわずかに揺れる。
手首ゎ細く、指先ゎ丸みを帯び、力を入れるとき、その“入れ方”が分からない。
声を出そうとすると、喉の奥で音が高くなる予感がして、思わず黙った。
股間に手を持っていくと……「ない」
今日ゎ“おにゃのこモード”固定です、と誰かに宣言されたみたい。
慌てて洗面所でメイクを落とそうとするけれど、石けんもクレンジングもびくともしない。
代わりに、口紅のスティックの裏側に極小の文字を見つけた。
〈キスすると解除〉
「条件、そこ!?」
思わず一人ツッコミ。
しかも相手指定なし。
でも、朝からそんなイベントあるわけない。
鏡の前で口紅をそっと指でなぞる。
「……これ、連載ネタにするしかなくない?」
こうして始まったキスしないと男に戻れない口紅とちょっと不思議な日常の記録。
次回、「解約条件、ほんとに“キス”だけ?」(の予定)
↑別画面が開ききるまでちょっと待ってね。

