「平和のための戦争」という矛盾
今日8月9日は、長崎に原爆が落とされた日。
あの日のことを直接知る世代ではない私も、この日が来るたび、胸の奥がざわめきます。
私は長崎生まれ、子供のころから、戦争と平和という言葉には、特別な響きを感じてきました。
けれど、どうしても納得できない言葉があります。
それは――「平和のための戦争」。
平和をつくるために、なぜ人を殺さなければならないのでしょうか。
理性も、道徳心も、思いやりもあるはずの人間が、なぜ「戦わなければ平和は守れない」と信じてしまうのでしょうか。
動物の世界では、縄張りを争って殺し合う種類はごくわずかです。
多くは威嚇や力比べで決着をつけ、命までは奪いません。
なのに、人間はその中でも、より多くの知恵を持ち、未来を想像する力まであるのに――なぜ、殺し合うことでしか未来を選べないのでしょうか。
戦争の映像や記録を見るたび、私の胸には虚しさが広がります。
勝っても負けても、失われた命は戻らない。
守りたかった笑顔も、もう二度と会えない。
本当の平和は、武器や力で勝ち取るものではなく、互いの命を尊び、相手の痛みを自分の痛みとして感じる心から生まれるのではないでしょうか。
この虚しさを忘れないために、そしていつの日か「平和のための戦争」という言葉が歴史の中だけのものになるように――
今日という日を、静かに思い続けます。

ちなみに、
長崎の平和記念像(北村西望作)の両腕と手の位置には、はっきりとした意味があります。
右手(天を指す)
天から落ちてくる原子爆弾の脅威を示しています。
「空からの脅威に、再び見舞われてはならない」という警告です。
左手(水平に伸ばす)
水平の左手は「平和と静けさ」を象徴しています。
戦争のない、安らかな日常を願う姿です。
閉じた目
原爆で亡くなった方々への黙祷を表しています。
また、像全体の姿は、力強さと柔らかさが共存していて、「戦争の脅威」と「平和の祈り」の両方を表現しています。