愛用しているiPodを次男に譲ることにした。
理由はいくつかある。
1つは、次男が自分のウオークマンを無くしたことだ。 学校に持っていって無くしたらしい。
そもそも “持っていってはいけないもの” なので、学校に『紛失届』も出せない。
もっとも相当にガタがきていたらしく、音が途切れ途切れでしか聞こえなかったので、彼自身にそれほど
未練はないようだった。
とはいえ、一度「音楽」の魅力に憑りつかれてしまうと、好きなときに好きな音楽を聴きたい、という欲求は
今も昔も変わらない。 次男は、新しいのを買おうかどうか悩んでいた。
もう1つの理由は、ぼく自身の「聴覚の開放」である。 「開放」と言うのは、ちょっと大袈裟かもしれないが。
ぼくはiPodを歩行時に使っていた。
朝、会社に向かう道では、ビートの効いた激しい曲を聴き、士気を高めた。
夜、帰り道では、ゆったりとしたバラードを聴き、夜空に星を探しながらもの思いに耽った。
すれ違う人たちの話し声、車のエンジン音、タバコ屋のおばちゃんのシャッターを開ける音、陸橋を走ってい
く総武線、ジョギングする人のウインドブレーカーのこすれあう音・・・・。
街の喧騒が、桜井和寿の強烈なメッセージに、平井堅の甘い歌声にすり返られていく。
これほど面白いものはない。
頭の中で流れるメロディーや歌の意味とは無関係の映像が目の前に広がっている。
確かに映像も、そこから発せられる音も、ぼくにはあまり関係のないものかもしれない。
でも、映像と、そこから発せられる音はつながっていて、意味を持っている。
ぼくは、映像から音を排除してしまった。
音と映像を切り離してしまったことで、ぼくは自分自身の思考の枠を狭めてはいないだろうか。
目に映る映像と、耳から入る音を結びつけることで、そこから生み出されるかもしれない『物語』の創作を
ぼくは怠ってはいないだろうか・・・・・・。
なーーんて、格好いいこと言ってるけど、本当の理由は、iPodを聞きながら歩いてて何度か自転車に轢か
れそうになったからなのでしたぁ。