野田佳彦「原発再稼働、私の責任で」という「無責任」 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

野田佳彦「原発再稼働、私の責任で」という「無責任」

僕は昭和38年生まれだから、昭和のほぼ半分と平成のすべてを生きてきた。
その中で、野田佳彦という男は、僕のもっとも嫌いな首相である。

確かにたとえば小泉純一郎のほうが後世に残る政治的な悪行をやってのけた人物だ。当時の大人気を盾に、新自由主義的な悪事をさんざん働いた。
だけど小泉純一郎は、言ってしまえば敵ながらcharmingなのだ。
僕は嫌いだが彼の笑顔は人を惹き付けるものがある。

ところが、野田佳彦というのは不細工でキモい。
誰か「野田佳彦に抱かれたい」という女の子がいるのだろうか?

お前は容姿で人を判断するのか、と問われるかもしれないが、悪いけどその通りである。
ヤングならともかく、50を過ぎた男は顔に人生が表れる。
そういうものだ。

昨夜は映像関係の打ち合わせでちょっと右的な人たちとも一緒に飯を食っていたのだが、「この半世紀でもっとも国民に信頼されていない政権」だということで落ち着いた。
田中角榮、佐藤榮作、中曽根康弘にも問題はたくさんあった。また、鳩山由紀夫は器が小さすぎたし、菅直人には僕は一定の評価はするがそれでも「震災時の首相は田中角榮だったほうがマシだったろう」と思う。
でもさあ、何割かの人たちは彼らを積極的に応援してたわけよ。

ところが野田佳彦にそれがあるか?
誰か野田佳彦を信頼している人はいるのか?
もちろん、単なる消去法で首相になった人物は他にもいるが、そういうふうに総理になった奴らはもうちょっとは国民の考えや思いを気にしていなかったか?

世の中には「「単なる悪口」はよくない」などと思う道徳的な人たちもいるので、まあそんな連中は本来あまり気にする必要などないのだが、一応なんというか、ここからは、説得力を増すために、かなり酔っ払ってはいるがなるべくきちんと書こう。

「福島で哲学」(その1その2)の続きを書きかけていたのだが、野田佳彦がまさに独断で大飯原発を再稼働させようとしているので、彼の言い草についてよく考える、というわけだ。

野田佳彦は、原発の再稼働について「最終的には私の責任で判断したい」だとよ。

これが、まったく意味不明、無責任なのである。

「どう言われようと私の責任で」などと言うのはヒーロー気取りの格好つけで虫酸が走るのだが、そもそも、すべての行政には行政府の長である首相に最終的な責任があるのは当たり前の話である。原発の再稼働と言った重要な問題についてはなおさらだ。
野田佳彦はなんだか得意気に言うが、言うまでもないことなのだ。
なぜ、わざわざ言う?
言おうが言うまいがお前の責任なんだよ。
ということはまず、確認しておきたい。

で。
ちょっとずつ「責任」という問題に踏み込んでいこう。

まず考えなければいけないのは、福島第一原発事故の「責任」を、誰かがとったのか?
と、いうことだ。

誰も責任を取っていない。

東電の清水、勝俣は役職を降りるわけだが、何兆円、何十兆円になるかわからない補償、廃炉費用を考えると、これで「責任」をとったと言えるのだろうか?
僕が思うに本来なら逮捕投獄されるべき東電の勝俣は、未だに豪邸で暮らして、ちっとも反省しているように見られない。
普通の神経の人であれば、もしも豪邸に住み続けるのであれば、一人でも二人でも福島から避難した人を受け入れよう、あるいはその姿勢だけでも示すと思うのだが、そんな気配すら微塵もない。
(びっくりすることに先月25日、日本原子力発電(日本原電)は社外取締役の勝俣を再任すると言っている。http://jp.wsj.com/Japan/Economy/node_449170

経産省の担当者は、がっぽり退職金をもらって辞めていった。
言うまでもないが、自民党でも民主党でも、原子力推進の責任をとって辞めた奴はいない。
(僕が菅直人をある程度評価する理由のひとつは、辞めたあとだが「国策として原子力を進めてきた国に責任がある」と謝罪したことだ(事故調))

要するに、福島の事故について、誰も責任を取っていない。

何が言いたいのかというと、
再稼働について野田佳彦は「私の責任で」というが、何か問題が起きた場合、彼が具体的にどのように責任を取るつもりなのか、まったくわからないのである。

つまり、「原発事故の責任の取り方」には前例がない。
原発についてはこれまでもいろいろな事故や隠蔽などが繰り返されてきたのであったが、行政府の人間できちんと責任を取った奴は一人もいないのである。(2002年に発覚した柏崎刈羽原発の事故隠蔽では東電社長役員の首が飛んだが)

なのに野田佳彦は、どう責任を取ろうというのだろうか?
それを具体的に言わなかったら、「私の責任で」なんて、単なる空虚な空手形に過ぎない。
言えよ、具体的に。

辞任する?
おっと、民主党は次の選挙で間違いなく惨敗だろうから、そんな責任の取り方は意味がない。
それとも野田佳彦は、自民党政権になっても、あるいは橋下政権になっても、万が一共産党政権になっても、原発再稼働の責任だけは未来永劫とるつもりなのか?
お前が死んだら、責任は債務のようにお前の子どもが引き継ぐのか?
それとも切腹でもしようというのか?

行政府が下した判断についてその責任を未来永劫まで問うというのは違うのではないか、という意見があるかもしれない。それは、その通りである。
21世紀の今、江戸時代の役人がしでかした悪行を問題にする人はいない。

だが、原子力はそれとは根本的に違った尺度の問題である。
江戸時代なんてたかが数百年前の話であるが、プルトニウム239の半減期は2万4000年だ。
野田佳彦が何回切腹しても足りないような、長~い時間である。

要するに、もし野田佳彦が切腹するというのなら是非やってもらいたいのだが、そんなことをしても、そもそも原発事故の責任は誰も取りきれない、ということなのだ。

ええと。
かなり酔っ払ってきたから話をちょっと変えよう。
とうかここからがじつは核心なのだけれど、ごめん、飲み過ぎてきちんと書けないよ。

「責任」というのは、ものすごく難しい概念なのである。

たとえば。

よく、「自由と責任はワンセットだ」などと言う人がいるが、大抵の場合、彼(彼女)の言う「自由」は「自由の概念」の一部分であり、「責任」は「責任の概念」の一部分である。ていうか、「一部分にしかすぎない」。
概念というのが難しければ、「意味」と言っても良い。

もちろん、生活、つまり日々生きていく中での実感から「自由と責任はワンセットだ」というのは、間違ってはいない。
でも、それがすべてではない。

どういうことかというと、「自由」や「責任」といった抽象的な概念に対して、人は具体的な事例を当てはめて考えざるを得ないのだけれど、具体例はどこまで行っても具体例に過ぎず、たとえば「パチンコを打つのはあなたの自由だけれど、負けたのもあなたの責任なのだから、今月はお酒は我慢しなさい」というような、ものすごく卑近な例でイメージしてしまう。
そして、そのイメージの延長線上に、「自由」や「責任」などといった、本来なら簡単に規定できないはずの概念を、それぞれ勝手に線引きしてしまう。

でも、
もしも僕が血気盛んな右翼少年であったならば、包丁を隠し持って東電の勝俣恒久を刺しに行くだろう。

もちろん50歳になろうとする僕はそんなことはやらない。
テロルは敵のプロパガンダに利用されることをよく知っているし。

でも、もし右翼少年が勝俣を刺したとすると、彼の「勝俣を刺す自由」とはいったい何か?
その「責任」はどこにあるのか?

もっと卑近な例で言おう。

一昨日、アルカイダのナンバー2と言われる男が米国CIAに殺害された。
米国は公式には自分たちが手を下したとは言ってはいないが、米国がパキスタン国内に無人機を飛ばして攻撃して殺したのは、CNNなどの報道を見る限り事実だろう。
「カーニー報道官は「アルカイダの中枢にさらなる深刻な打撃を与えた」と述べ、リビ幹部の死は「数年前から続くアルカイダ中枢の衰退の一過程」だと語った」(http://www.cnn.co.jp/world/30006860.html)わけだが、パキスタンは「重大な主権侵害だ」と抗議している。

考えてみよう。
日本国内の山奥の村に、国際テロ組織の幹部か潜んでいたとする。
で、どこかの国が勝手に(つまり自由に)無人機でやってきて空爆し、彼を殺した。

国際政治的な問題は脇に置く。
「自由」と「責任」という文脈で、これをどう考えたら良いのだろうか?

僕は相当酔っていて、さて、みなさん考えてください、という感じになってしまったよ。

でもまあ、「責任」というのは、このようにたいそう難しいことばなのである。
ほんとうに、注意して使わなければならないことばなのである。
甘く見るなよ野田佳彦。
お前は「責任」ということばを使うには、あまりにも無責任だ。