桜 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

今回は原発の話ではありません。
ほんとうに脈絡のない雑文。
興味のない方はどうぞスルーを。

さて。
東京は、ちょうど桜が見頃である。

僕は中目黒駅から歩いて15分くらいのところに住んでいるのだけれど、この時季だけは、5分ばかり遠回りして帰る。
目黒川沿いの桜並木の下を歩いてくるのだ。

桜並木というのは都内いろいろなところにあるのに、どういうわけかいつの間にか目黒川は有名になってしまい、川沿いにカフェとかレストランとかもいっぱいできて、花見の頃はお店が表で生ビールや日本酒はもちろん、シャンパンとかテキーラまで売っている。
食べ物も、寿司、おでん、焼き鳥からピザ、エスニックまで、川沿いの遊歩道でなんでも買える。

まあそんなわけで、中目黒に一年で一番人が集まるのが先週末から今週なのだ。
昨夜も僕は、セブンイレブン買った缶ビールとチーカマで満開の桜を眺めながらひとりたらたら歩いて帰って来たのだったが、夜だというのにほんとうに人が多い。
若いサラリーマン、OLや、ファッション、デザイン系ぽいお洒落さんたちとか。

でね、
みんな、ほんとうに楽しそうなのだ。

友達が、花見の写真をFacebookに載せたら海外に住む日本人にものすごく羨ましがられた、と言っていた。
もちろんどこの国でも綺麗に咲いた花を楽しむ習慣はあるだろう。
でも、海外の日本人に人気だった写真は、タッパーに入れてみんなが持ち寄った料理や、ビニールシートの上での酒盛りの様子だという。
見頃を迎えた桜の木の下にみんなが集まり地べたに座って酒を酌み交わす、というのは、よく知らないけれどどうやら日本独特らしい。

さらにいえば、世界のどこの国にでもいろいろな行事があるわけだけれど、大抵は何月何日とか何月の何週目の何曜日とか、そんなふうに決まっている。
でも、花見というのは、花が咲いたときにやるものだ。

日本気象協会の4/4発表(http://www.jwa.or.jp/content/view/full/4337/)によると、「2012年の桜前線は、現在、平年より5日程度遅れて中国・近畿や東海・関東地方を北上中」とのことだ。
5日違うとすれば、週末に花見をするなら一週間ずれるということになる。
世知辛い世の中、仕事の納期が一週間延びたりすることはあまりない。
でも、花見は一週間延びるのだ。
人々は、カレンダーではなく桜の都合に合わせて動く。
それが花見の良いところだ。

見頃は一週間もない。
ほんとうに、数日だけだ。
桜は、一年のうちに、たった何日かだけ、ものすごく綺麗な姿を見せてくれる。
その何日間かのためだけに、日本人は学校の校庭や公園、川沿いなどに桜を植えてきたのだ。

なんというのか、日本に生まれてよかったなあと思うのは、そういうビミョーな季節感を感じられるからということでもある。

突然、夏の話になってしまうけれど

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

芭蕉の有名な句であるが、僕はこういうところに、刹那や無常観とともに、日本人の「時間観」の機微を感じるのである。

桜もそう。
満開が一ヶ月も続くのであれば、誰もその下で宴を開こうとは思わないだろう。
さっきも書いたように、我々は、桜の都合に合わせて宴の日を決める。
これは、クリスマスのような「偉人の誕生日」や「偉人が何かを為し得た日」とかではない。
桜の儚さを知っているから、その日に集まる。
そして、「こんな綺麗な桜が見れるのは今だけなんだな」と思うのと同時に「来年もきっと見よう」と誓う。

我々は「一週間しか咲かない桜」や「成虫になったら一週間しか生きない蝉」の姿の中に、「無常」と「繰り返し」という、相反する観念を同時に見ているのだ。
そんな、矛盾した時間観に、なんというのか日本的なリアリティを感じるのである。

ところが今、日本でも多くの人が「時間とは線のようなものだ」と考えている。
すなわち、微分すると「2012年4月7日午前2時36分32秒……」のような無限の「点」からなる「線」だ。
一般的な世界観や、常識的な科学技術、法や経済の考え方もそうだ。

でもそれでいいのだろうか?

終末思想を説くキリスト教や、共産主義社会の実現を信じるマルクス主義にとってはそうかもしれない。
さらにいえば形而上的弁証法を言ったヘーゲルなんかもそうだし、まあ、欧米の時間観というのは、概して「線の比喩」である。

でもそれで、ほんとうにいいのだろうか?

おっと、桜の話から、酔っ払って気の向くままに書いていたら時間論になりそうだ。

花見の話に戻ろう。

日曜日には、目黒川沿いの花見コースの特設会場で、満開の桜の下いろんな店とかがテント出店していたのだけれど、その中に宮城県気仙沼市のブースがあった。

目黒区と気仙沼市は友好都市なのである。
「目黒のさんま」は落語で知られているが、目黒でさんまは捕れない。
で、毎年9月に行われる「目黒のさんま祭」(目黒区民まつり)では、気仙沼市からたくさんのさんまを提供していただいているのだ。
美味しいさんま焼きが無料で振る舞われるので、いつも大行列ができる。
さんまの漁獲量が少なかった一昨年も、気仙沼の人たちは目黒のお祭りのために、地元で消費する分を減らしてまで、例年通りの量のさんまを用意してくれた。

でも、震災後の昨年はさすがに無理かと思われていた。
僕は5月に取材などもあって気仙沼に行ったのだけれど、あまりの惨状に涙が出てきたものだ。
目黒のためにさんまを用意するなんて、とてもじゃないけれどできないと思っていた。

ところがそれでも、昨年のさんま祭りのために、気仙沼の人たちは目黒に5000尾ものさんまを届けてくれたのだった。

震災後、区内では気仙沼の様子を伝える写真展や募金活動などがずっと行われていた。区の職員も気仙沼市に派遣されたらしい。
そういった「復興支援に感謝の思いを込めて」(菅原茂気仙沼市長)、さんまを提供してくれたのだった。
泣くよね。

花見の特設会場のブースでは、気仙沼のいろいろなものが売られていた。
昨年の5月に見た気仙沼は、町の体をなさないほど破壊されていたが、今では着実に復興しているのだろう。

特にこれだけは書いておきたいのだけれど、八葉水産(http://www.hachiyousuisan.jp/)の『いか塩辛 気仙沼』。
今回初めて食べたが、美味しいぞ!
言っておくが僕はこれでも塩辛にはうるさい。
市販の塩辛の多くは甘すぎて気持ち悪い。酒の肴にならない。
ところが、八葉水産の『いか塩辛 気仙沼』はイケるじゃないか。
酒飲みの僕が言うのだからほんとうだ。

『いか塩辛 気仙沼』のパッケージの裏には、震災から一年、やっと商品を出荷できるようになりました、と書いてある。
「力を貸してください。Facebook、twitter、ブログ等でのご支援お願いします」
と書いてある。
書くよ書くよ、書きますよ。
だって、美味しいからね。

今夜は話があっちに飛んだりこっちに飛んだりですいません。

ええと、桜満開の目黒川から徒歩1分のところに、ゴミの焼却場がある。
都内でも目黒区はそれほど放射能汚染されていない地域だけれど、それでも焼却灰からはキロあたり数百ベクレルの放射性物質が検出されている。
フィルターなんかつけてないだろうから、煙の中の放射性物質は目黒区民の上にフツーにまき散らかされているわけだ。

日本は、そんな国になってしまった。

僕は花見が大好きで、日本に生まれてよかったなあと思うのだけれど、この期に及んで平然と原発を再稼働させようとする政治家や、己の利益しか考えていない役人や御用学者、マスコミ、カネのことしか頭にない財界人どもの、見事な破廉恥振りを見るにつれ、あらためてこの国に嫌気がさしてくる。

せっかく綺麗な桜が咲いているのに、馬鹿どもに支配される日本。
とても悲しい。