昨日は「4・30脱原発デモ@渋谷」に行った。 | 語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

昨日は「4・30脱原発デモ@渋谷」に行った。

参加したのではなく、見学だ。
ほんとうはどっかで取材費と原稿料もらえればよかったのだけれど、急に行ったから、どこの取材でもない。

で、
今回は、「2011年の脱原発デモ」ってどんな感じなのか見たかったので、列に加わっちゃうと俯瞰できない。
そこで、丸井の前あたりで一通り見て、スクランブル交差点でもう一回見て、明治通りから解散地の代々木公園まではついていき、解散まで見届けた。

主催者発表は「800人かなあ1000人かなあ」とか言ってたけど、800人~1000人は確実にいたと思う。
これは、いわゆるプロ市民とか言われる運動家のデモだったら、「主催者発表3500人」となる規模だ。

見栄を張らず謙虚でとっても良い。
(数字を誇張し始めるといけないのだ。腐敗への不吉な前触れだ)

どれくらい警察官が来るのかも見たかった。
制服は思ったよりいっぱいいたぞ。
私服で片耳にイヤフォン刺して、歩道に何気に立ってたのは公安かな?
それにしては、あんまり緊張感ないな。
公安はたぶん何人かデモ隊に混じっていたと思う。あいつらは平気でそういうことをする。
機動隊が出てくると雰囲気ががらっと変わるのだが、まあ近くの所轄にでも待機していたのだとは思うのだけれど、その出番などはもちろんなく、極めて平和的に、ゴールデンウィークで人の溢れる渋谷~原宿をぐるっと歩いた。

警察官に分断されて、ぱっと見ただけの人は規模感がわからなかったかもしれない。
でも、僕は思った。
このデモは、インチキじゃない。本物だ。
なにより、組織が招集をかけたデモではない。
ひとりひとりが自分の意思、気持ち、考えで参加したデモだ。


今、RCサクセションの『Covers』を聞きながら書いているのだけれど、もし清志郎が生きていたら、アコギを持って参加していたかもしれない。
そう思うと泣けてくるほど、僕は、とても嬉しい。

それにしても行儀が悪かったのは道玄坂の一番下に陣取った右翼の連中だ(ハチ公前で日の丸を振っていた集団ではない)。
10人中4人くらいがハンドマイクを持ち、デモの行列に向かってボリュームいっぱいに
「左翼! キチガイ、ウジ虫、出てけ!」
などと絶叫している。
下品だなあ。
しかし、デモに参加している若い子たちは、そんな下品な連中の喧嘩を買うこともなく、逆に彼らに対しても笑顔で手を振っていた。

僕はそれを見て、ほんとうに、ほんとうに嬉しかった。

品のない言葉で人を罵ったって、誰も応援してくれないよ。

だいたい、マトモな右翼はそんなことしない。
僕だって少しは右翼の人たちのことを知っている。
たとえば、亡くなってしまった一水会の見沢知廉さんは、出版社にいた頃、担当編集者として一緒に仕事をさせていただいた。

見沢さんはほんとうに紳士的な人で、僕とは思想信条は違ったが、人を冒涜するような発言は、決してしなかった。
ほんとうに真剣に、日本のこと、社会のことを考えていた。

他人をウジ虫呼ばわりするのは、自分がウジ虫だと言っているようなものである。

それに「左翼」ってなんだよ?
デモ=左翼なんていう発想は、30年前から思考停止しているのではないかな。

もし僕が右翼だったら、絶対「反原発」を主張するけどな。
だって、原発は、国土を放射能で汚し、福島の人たちから生活を奪ったんだよ。

よく考えた方がいいと思う。


くだらない人たちの悪口を書き続けていても仕方がない。

今はほんとうに目立たなくなったが、僕が学生だった頃、1970年代後半は、新左翼だとか過激派だとか言われていた人たちが、まだ、ある程度の組織力を持っていた。学生寮で民青が鉄パイプでボコボコ血まみれにされてたりもしていた。
(早稲田大学が学園祭のパンフレット販売利権から革マルを追い出したのも今からせいぜい5年くらい前だったと思う)

そんなわけで、その頃高校生だった僕は、中核派の人にガリ版刷りのビラで実名で糾弾されたりした。
なぜかといえば、マルクス・レーニン主義に素朴な疑問をぶつけ続けたのだ。
「権力を倒そうって言ってるけれど、それは『別の権力』を作りたいだけなんじゃないの?」

今思い出すとおっかないが、当時は若かったから全然へっちゃらだ。
「鹿島君(僕だ)は、反動的な発言を自己批判せよ!」
とか、拡声器で言われたりもしたが、ふざけんなっていう感じだ。

でも、そのうちにそんな闘いも馬鹿らしくなってきた。
みんな、最初は正義を目指していたのだと思う。
それがいつの間にか、「自分の組織が言ってることだけが正しい」というふうになってしまった。


正直、うんざりした。

そんなこともあって、僕はもう、政治的な発言、行動をするのはやめようと思った。

だから、大学を卒業して社会人になった後でも、反原発ソング『サマータイム・ブルース』がFM東京で放送禁止になったことに抗議して、忌野清志郎が生放送の『夜のヒットスタジオ』で、「オマンコ野郎FM東京! ざまーみやがれ!」と歌ったときも、痛快だったが、僕は自分ではなにも行動しなかった。



で。
http://www.ustream.tv/recorded/14371802
↑ここで、昨日のデモの様子が見れる。

最初だけ見たけど、松沢呉一氏、良いことを言うな。
「俺たちはもう50になって、伝達(の役目)は終わったと思ってたんだよ。だけど、伝達したはずだったものが伝達されてないことに気づいちゃったんだよ。福島を見たとき」

僕はこの四半世紀、松沢氏のように世界と闘ってきたわけでは決してない。
むしろ、避けてきた。
良く言えば「敗軍の将は兵を語らず」。
悪く言えば、逃げだ。
本気で社会にコミットすることがどれだけ不毛で面倒くさいかということは痛いほどわかっていたし、松沢氏のように文才のある人ならともかく、50になろうとしているいいオトナが自分の社会的主張を述べるのはあまり褒められたことではない、と思っていた。
それに僕は、政財界からお金をもらっているマスコミからお金をいただいて生活しているわけだし。まあ、穏当にやっていきましょう。

しかし。
地震があり、津波があり、そして「Fukushima」を見たときから、
つまり、
テレビで望遠レンズで撮った福島第一の生放送を見ながら(僕はそのときNHKを見ていたのだが)、アナウンサーが「1号機の建屋が、骨組みだけになっていませんか?」と言ったときから、
「え?」

僕は、人生観、世界観を変えざるを得なかった。

僕が尊敬する哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、「信念」について深く考えた人だった。
読んだのはしばらく前なので正確ではないが、たとえば
「私が生まれるずっと前から、地球は存在し、人々は生きてきた」という命題は、「信念」に関することがらだ。
つまり、「私が生まれたその瞬間に、世界はそうであるようにできあがったのだ」という命題を論理的に覆すことは難しい。(それに比べたらデカルトのコギトエルゴスムなんか簡単に論破できると、僕は思う)

だからこそ、信念を変えると言うことは、生き方そのものを変えると言うだ。
たとえば、これまで進化論を信じなかった保守的なキリスト教徒が、進化論を信じたとき、その人は別の人格にならざるを得ない。

僕にとって「日本は安全な国だ」というのは「信念」に近いものだった。
考えてみれば、国家や権力といった存在は本質的に「悪であらざるを得ない」と思っている僕が、無反省に「日本は安全な国だ」と思ってきたのは大きな矛盾である。
でも、この日本で、交通事故や暴漢に襲われるリスクはないとは言えないけれど、原発が(原子炉ではなく建屋であれ)爆発するなんて、まったく、想像すらできなかった。

「信念」が崩れた。

それを整理するまでに、しばらく時間がかかった。

震災後は、募金はもちろん、被災地に救援物資を送るための後方支援などもしていた。

被災地の子供のためにおもちゃを送ろうというNPOがあって、そこにぬいぐるみを送ったら、後日そこのwebsiteで、子どもたちにおもちゃを配ったときの写真がアップされており、その中の一枚に、送ったぬいぐるみを抱いた2歳くらいの子どもの写真が掲載されていた。

涙が出た。

もちろん、一生、この子とは会えないのだろうけれど、元気に育って大人になってほしい。
僕には子供はいないが、まるで自分の子供のように、その子のことを考えた。

どんなことがあっても、絶対に、この子に、放射能を浴びせてはいけない。
そう思った。

僕は、自然科学は全然駄目だったが、哲学も論理学もやった。今ではすっかり忘れてしまったが、様相論理などというよくわからないことも少しは勉強した。
ベクレルもシーベルトもわかった。原発事故が起こらず普通に生活しているだけでも、人間は少しは被曝していることも知った。

それらは大事なことではあるが、でも、そういう問題ではない。
もう人生の半分以上を過ぎた僕が、夜でもすごく明るい六本木で気分良く飲んで、夜でも結構明るい中目黒のマンションに帰り、エレベーターに乗って、明かりを点けて、テレビを見て、パソコンを立ち上げて…
とやっていたすべてが、これから何十年も生きてほしい子どもたちに放射線を浴びせることになってしまったのだ。

どんなことがあっても、絶対に、子どもたちに、放射能を浴びせてはいけない。


今夜は、ひとりで居酒屋で飲みながら、新しくできるペット用品のブランド名を考えていたのだが、全然思いつかない。
なので家に帰ってRCを聴いていたら感傷的になってしまった。
原稿料をもらえない文章は推敲しないので、だらだらと余計なことを書いて長くなる。

いずれにしても、闘いは始まったばかりだ。

僕はどこまでついて行けるかな?

「HAVE YOU EVER SEEN THE RAIN」~THE JEEVAS

邦題「雨を見たかい」のカヴァー。
日本のCMでも使われている有名な名曲だが、「雨」とは、ベトナム戦争でのナパーム弾。