知名度はないけども、インパクトのある戦国武将を紹介するシリーズ。
今回は、わが故郷、美濃(現在の岐阜県南部)の戦国大名 斎藤義竜(1527~1561)。
斎藤義竜(さいとう・よしたつ)公は、美濃のマムシこと斎藤道三の子。
しかしながら、その出生には疑惑があります。
というのも義竜公は、生母、深芳野(みよしの)が斎藤道三公に嫁いでから7ヶ月で生まれた子だといわれているからです。
深芳野は、道三に嫁ぐ前、道三の主君・土岐頼芸公の愛妾でした。主君を追放したと同時に、道三公は、この深芳野も手に入れました。つまり、深芳野は土岐の殿様の子どもを身ごもっていた可能性があるわけで、それが義竜公だったというのです。
義竜公は成長するにつれて出生の秘密を知り、疑心暗鬼になったのでしょうか、父・道三公と対立するようになります。さらに、道三公が娘の濃姫を織田信長に嫁がせ、わが子よりも信長公を高く評価するようになるなど、その対立は決定的となりました。
このような原因から、義竜公は1555年、道三公に反旗を翻します。
その義竜公の見事な戦いぶりから、道三公をして、「その器量を見抜けざるは我が不明なり」といわしめるほどだったとか。
こうして道三公が倒され、美濃は義竜公が治める国になりました。つまり、美濃国の政権交代です。織田信長と親交のあった道三路線から、信長公と対立する義竜公路線への転換です。
織田信長公は、義父・道三公の弔い合戦として何度も美濃に侵攻しますが、義竜公はいずれも撃退しています。義竜公の采配ぶりは、信長としても相当手ごわかったのでしょう。
そんな武勇に優れた義竜公ですが、信長公が今川義元公を破った桶狭間の戦いの翌年(1561年)、惜しくも病没されています。一説には信長公による暗殺説もありますが、いずれにしても義竜公がそのまま存命していれば、信長公の美濃攻略はさらに遅れたか、出来なかったかもしれません。
それでも美濃は難攻不落で、織田信長公が美濃を手に入れたのは、義竜公の死後6年後です。
このように、斎藤義竜公という存在は、織田信長公にとっても強力な好敵手だったことは間違いありません。 さらに、この義竜公、肖像画もインパクトのある顔立ちをなさっておりますが、さらにすごいのがその身長の高さです。当時で6尺3寸の大男であったとのこと、今で言うと190cmです。
当時の成人男性の平均身長は155cm程だったところからしても、その大男ぶりがうかがえます。