小沢さんも巻き込んで、ついに退陣。
しかしながら、本当に責任を感じているのならば、これを期に政治家をきっぱり辞めて、さらには私財を投じて、米軍基地関連の負担軽減を経済面から支援すべきだと思いました。
知名度はないけれど、インパクトのある戦国武将を紹介するシリーズ。
今回は、戦国三梟雄(きょうゆう)にも数えられる備前(びぜん。現在の岡山県)の戦国大名、
宇喜多直家(うきた なおいえ 1529~1581)。
宇喜多直家公といえば、豊臣政権の五大老で、関ヶ原の戦いでは西軍で奮闘したあの宇喜多秀家公(1572~1655)の実父でもあるのですが、世間的には知名度が低い気がします。
それは、直家公が稀代の策謀家であり、謀略や暗殺、裏切りを多用したからです。
他勢力との内通が疑われる同じ家中の有力武将を、言葉巧みにおびき寄せて暗殺
敵陣に刺客を放って、敵の戦国大名を「鉄砲」で暗殺
男色趣味のある城主には、美男子を送り込んで寝所で暗殺させる
直家公の出発点は、備前の戦国大名、浦上氏の家臣です。直家公は浦上(うらがみ)氏の一武将として各地を転戦、主君浦上宗景(むねかげ)公の信頼も得て、家中でも有力武将に成長します。
そして力が衰えた主君の浦上宗景公を下剋上により追放、最終的には戦国大名へと成長しました。
下剋上といえば、悪人のような感がありますが、戦国時代では必ずしも悪ではありませんでした。
力のあるものこそ国を統治して、民の生活を守るべき。これが戦国時代の論理でした。
したがって直家公も、用いた手段こそ非道でしたが、家中で力をつけて、最終的には力のない主君に取って代わったという、戦国時代の論理を地で行った人物といえます。
そんな直家公は、外交的にも手腕を発揮しています。
まだ下剋上を起こす浦上氏の一武将の頃から、成長著しい西の大大名、毛利氏とまず同盟を結びます。
そして、織田信長公が勢力を拡大してくると、毛利氏とは絶交して織田家と結びました。この際に、当時は幼児だった秀家公を人質として、秀吉公に差し出したわけです。
織田と毛利が前面衝突しようという最中、直家公は病死してしまいます。そのため、人質に出されていた秀家公は、そのまま秀吉公のもとで成長しました。
このような縁で、秀家公は若くして豊臣政権の五大老まで出世します。ここまでが宇喜多家の全盛時代です。
その後は、かの関ヶ原の戦い、秀家公は八丈島流罪。
もし直家公が関ヶ原まで存命していれば、秀吉公への大恩よりも時流を読んで、秀家公を東軍に導いたかもしれません。