知名度はないけれど、インパクトのある戦国武将を紹介するシリーズ。
今回は、秀吉の懐刀(ふところがたな)、竹中半兵衛(たけなか はんべえ 1544~1579)
竹中半兵衛公がすごいのは、その天才的な戦略眼と野心のなさ。
半兵衛公は、美濃(現在の岐阜県南部)の斎藤氏に仕えます。
斎藤氏は、まむしで有名な斎藤道三公の死後、方針転換して、織田信長公と対立します。
半兵衛公が20歳前後の頃の主君は、斎藤竜興(たつおき)公といいました。
この竜興公は、父義竜公が病死したため、弱冠13歳で斉藤家の跡を継ぎました。
まだ若いという点もあるかもしれませんが、勝手な振る舞いが多く、当主の器ではなかったようです。そんな主君・竜興公をいさめようとした半兵衛公は、すごい計画を実行します。
主君の本拠地、稲葉山城(のちの岐阜城)を乗っ取り、追い出してしまおうと考えました。
半兵衛公は、わずか16人の手勢で稲葉山城を急襲、主君を追放してしまいます。
これを知った織田信長公、半兵衛公に使者を差し向け、稲葉山城を明け渡すよう説得します。
しかしながら、半兵衛公は「別に、人のためにやったことではない。」と信長公の要求を断り、半年間も稲葉山城を占拠しながらも、主君・竜興公に城を返して、自らは隠居してしまいます。
さて、この半兵衛公のうわさを聞きつけた秀吉公、ぜひとも自分の力になってほしいと半兵衛公のもとへ通います。通っては断られを繰り返すこと7度、半兵衛公はついに秀吉公の下で働く決心をしました。
その後は、秀吉公の軍師として各地を転戦。秀吉公の前期出世街道をサポートしました。
しかし、病弱な体だったらしく、惜しくも35歳の若さで病没。
ちなみに、狂言師・和泉元弥さんのお母君「セッチー」こと和泉節子さんの出は、竹中半兵衛公を輩出したこの竹中氏だそうです。
