続けて今回も、無我について考えていきます。
前回の最後に紹介した、「無常〔ムジョウ〕」(アニッチャ)という言葉は、すべての物・現象は、一時も止まることなく変化し続けるという意味です。
注意すべき点がありますが、「何か」が変化し続けているのではないのです。何か実体的なものが変化しているのでなく、あらゆるすべてのものが変化していて、一瞬、一瞬、刻々と出来上がった現象が連続しているだけなのです。
Aという、ひとつにくくった物や現象が刻々と変化しているというのではなく、Aを成り立たせているすべての要素や周囲のすべても変化し続けているので、Aという全体でみても当然、変化し続けているということになるのです。つまり、無常であり無我ということです。
ここで、改めて無我について考えてみましょう。
もしも、「この世界は、無我でなく「我」(実体が存在する)」というのならば、すべての物や現象は変化しないもののはずなのです。
実体があるならば、それは確固としてそのものをそのものたらしめているわけなので、変化などしてしまっては、実体ではないのです。
変化しない、確固とした、核となる、そういう形容をされる実体とは、無常の真実と相反するものなのです。だから、すべては無我なのだということができるのです。
かなり難しくなってきたと思います。ちょっと視点を変えてみたいと思います。
今まで、無我・無常を、論理的に考えてきましたが、これらは仏教の実践の観点からすると、理解は当然するべきものなのですが、体験するものなのです。
悟りとは、理解でもありますが、それよりも、悟りとは体験なのです。「すべては無常で無我だ。自分という気持ちも錯覚だ。」と”体験”すると、それが悟りなのです。「悟りとは体験」と、覚えておかれるとよろしいかと思います。
今回はこのへんで。
ありがとうございました。