今回も、無我〔ムガ〕や無常〔ムジョウ〕について考えていきます。
(今回は少し長くなりますが、あまりよくわからなくても読みすすめていただきたいです。)
また、具体的な例を出します。
物理の話を通して、無我と無常について理解を深めたいと思います。
すべての物や現象は無我で無常ということです。
物理学で発見されているように、すべての物質は、原子〔ゲンシ〕から成っていて、その中にも、電子〔デンシ〕や核、核の中には陽子・中性子などがあります。これらの構成要素は、常に動いているということは、物理学で説明されている通りです。
つまり、どんな物質も、物理学でみると、常に動いて変化していて、止まっているということは一時もないのです。仏教の無常も、これと同じです。
そして、すべてが常に変化しているならば、そこに、何か常にかわらない実体や本体などはないということになります。どんな物質も、ばらしてみれば、すべて原子からなっているので、鉄なら鉄の実体というものがあるかというと、ないですし、水なら水の実体があるかというと、ばらしたら、水素原子と酸素原子からできていて、それらはまた原子や陽子などから成っているということになり、「水を水たらしめている実体」などはない、ということになりますね。つまり、無我ということになります。
ここでは、物質だけの話になってしまいましたが、人間の精神・心といった現象、つまり、私たちの意識や感覚、つまり心も、すべて無我で無常であると、仏教では説いています。
例えば、感覚です。感覚は眼・耳・鼻・舌・身・意〔ゲン・ニ・ビ・ゼツ・シン・イ〕の6つと説かれており、順に、目の感覚(色と形を感じる)、耳の感覚(音を感じる)、鼻の感覚(香りを感じる)、舌の感覚(味を感じる)、身体の感覚(触感と温度を感じる)、思考や気持ちなどの感覚(精神・心に触れるものを感じる)、ということになります。一般の科学では五官〔ゴカン〕といわれ、前記の最後の”意”が抜けていますが、仏教では、6つ上げています。この6つを、「六処〔ロクショ〕」(サラーヤタナ)といいます。
この六処にふれる刺激と感じる感覚も、常に同じではありません。ずっと同じ物が見えているわけではありませんし、ずっと同じ概念が頭にあるわけでもありません。常に移り変わっていますので、これらも無常ということになります。
そして、無常であるのですから、実体はなく、無我ということにもなります。
そうすると、絶対的な、とらえどころのあるものはなく、不完全な不満足なものであるので「苦〔ク〕」(ドゥッカ)であり、また、「あるわけでも、ないわけでもない」という「空〔クウ〕」(スンニャ)ということにもなります。
仏教では、万象を、心と物質の2つに分け、「名色〔ミョウシキ〕」(ナーマ・ルーパ)といいますが、この両方ともが、無常・苦・無我・空ということになります。
このように、すべての心的な現象(名:ナーマ)も物質的現象(色:ルーパ)も、無常・苦・無我・空と理解したり、瞑想で体験すると、それが悟りということになり、涅槃〔ネハン〕(ニッバーナ)に至ります。
心的な現象(名:ナーマ)も物質的現象(色:ルーパ)も無我ならば、”自分”、”自己”、”自我〔ジガ〕”などという「自分がいる」という意識や気持ちは錯覚であり、実は、「自分はいない」「自分とは現象の連続で固定的な自分や魂のようなものがあるわけではない」とわかります。これを理解・体験すると、悟りということになります。
以上、無我という視点から、仏教の根本的な思想について確認しました。このシリーズは今回で完了と致します。
ありがとうございました。