俺達のプロレスラーDX
第216回(最終回) ミスター・ストロングスタイル 野心と覚悟と責任の徒手空拳/永田裕志
2004年10月9日・新日本プロレス両国国技館大会。台風が直撃した平日のビッグマッチは荒れに荒れた展開が次々と襲う。
田中稔がジュニアスターズのパートナーである金本浩二を裏切り悪の道へ。蝶野正洋がブラック・ニュージャパンと呼ばれる一大派閥を結成しその暴れっぷりから観客からモノが投げられ、怒号が飛び交う。メインイベントの藤田和之VS佐々木健介のIWGP戦は胴締めスリーパーを決めた藤田の背中がマットについた状態で3カウントが数えられ短期決着となり、場内のフラストレーションは頂点に達していた。暗黒期と言われたこの頃の新日本を象徴する汚点が残った大会だった。
その大会に突如乱入したのがかつて新日本の現場監督を務め、新日本に去っていった長州力だった。
ブーイングもあれば、長州コールも巻き起こる。そんな長州の前に立ちはだかったのがかつて長州の付き人を務め、新日本のエース的存在として団体を支えていた守護神・永田裕志だった。そんな永田に長州はこう言い放った。
「永田、よくお前だけ上がって来たな。天下を取り損ねた男がよく上がって来た!」
天下を取り損ねた男…これほど永田裕志というプロレスラーをディスりながらも見事に表現した言葉はない。長州からの強烈なディスに対して永田は張り手で反撃。だが内心は腸が煮え繰り返しつつも、言われたくないことを言われたという想いも去来したのではないだろうか。
永田裕志は己のプロレスに絶対の自信があった。183cm 108kgのバランスのとれた肉体、プロレスラーとしての強さ、しなやかさ、うまさ、どんな相手でもきちんとプロレスに昇華できる技能。どれも平均点以上を誇り、多くの名勝負を残してきた。現在では絶滅危惧種ともいわれるストロングスタイルを継ぎ、プロレスIQも高く秀才ともいえるプロレスラーだ。かつてIWGPヘビー級王座を10度防衛し、ミスターIWGPと呼ばれた。
だが新日本に「永田時代」はあったのだろうか。答えは残念ながら「永田時代」は到来することはなかった。どんなに実績を上げてもいい試合をしてもである。
なぜ彼は天下を取り損ねたのか?
なぜ彼は新日本から離れずに、長年団体を支え続けたのか?
そして彼のレスラー人生とは何だったのか?
なぜ彼は新日本から離れずに、長年団体を支え続けたのか?
そして彼のレスラー人生とは何だったのか?
今回は新日本プロレス一筋四半世紀以上を誇るのレスラー人生を追う。
永田裕志は1968年4月24日・千葉県東金市で生まれた。父は高校の校長兼野球部監督、母は英語教師という学校の先生が両親という家庭で育った。小学4年生になるとサッカーを始め、スポーツの素晴らしさに気がついた。中学生のなると父の影響で野球部に入った。
サッカーを始めた頃に彼はプロレスと格闘技に出会う。
「プロレスだけでなく『リングにかけろ』(作:車田正美)などのボクシング漫画など、リングという世界で繰り広げられる勝負の世界が、めちゃくちゃカッコ良かった。それに、テレビではアブドーラ・ザ・ブッチャーが大暴れをしていたり、タイガーマスクなどが大活躍をしていました(中略)いろんなレスラーがいる中で、やはり応援していたのはジャイアント馬場さんやジャンボ鶴田さん。そして、アントニオ猪木さんをはじめ、藤波辰爾(たつみ)さんや長州力さんなどの日本人レスラーでした。小学校6年の時には、近くの青果市場に全日本プロレスが興行にやってきて、生で初めてプロレスを観たんです。父に懇願して連れて行ってもらいました(笑)」
【プロレスラー 永田裕志──「負けから這い上がる力」が僕の財産 栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 前編/カンパネラ】
【プロレスラー 永田裕志──「負けから這い上がる力」が僕の財産 栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 前編/カンパネラ】
高校に入ると個人スポーツに熱中したいと思うようになり、レスリングを始めることになる。そこで彼はレスリングの才能に目覚める。
「レスリング部の練習は、やはりハードでした。だけど、ちゃんと練習をすれば上達していく自分をしっかり感じられ、競技人口が少なかったことも功を奏して、県大会などでそれなりの結果を出せたのがうれしかったんですね。(中略)成績も上位で大学受験を視野に入れて、夏期講習に参加しようと考えていました。そんな僕を先生が家にまで電話をかけて『お前にとって、今が一番のチャンスだ』と。先生の説得に応じて合宿に参加し、レスリングの楽しみ方が倍増していきました。(中略)好成績を残すようになり、海外にまで行ける上位選手にも成れました。その頃には『もう大学に行ってもレスリングをやろう。どこまで行けるかやってみよう』と決めていましたね。レスリングが一番強いと言われていた日本体育大学に入りたいと考えていました。顧問の先生のつながりで、日体大レスリング部監督だった藤本英男先生を紹介してもらい『日体大でレスリングをやるなら、オリンピックを目指しなさい。一生懸命練習すれば、チャンスは誰にでもあるのだから』と言われたことがどんどん自分の中で大きくなってきていました」
【プロレスラー 永田裕志──「負けから這い上がる力」が僕の財産 栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 前編/カンパネラ】
【プロレスラー 永田裕志──「負けから這い上がる力」が僕の財産 栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 前編/カンパネラ】
世界ジュニア選手権グレコローマン81kg級予選優勝など国際大会で実績を引っ提げて彼は日本体育大学に進学、レスリングでオリンピックを目指すことにした。全日本学生選手権優勝、全日本選手権3位と実績を上げるも1988年のソウルオリンピック日本代表になることはできなかった。レスリングでオリンピック日本代表になるために猛練習の日々。実績を積み重ね、大学卒業後にも研究生として残りレスリング漬けの毎日を過ごした。1992年の全日本選手権グレコローマン82kg級優勝を果たした永田。だがオリンピック最終予選となったアジア大会で結果は振るわず、オリンピック日本代表にはなれなかった。
実は永田はオリンピックを目指す中で、新日本プロレスの馳浩から「新日本プロレスを選んでくれたら、いっぱしのプロレスラーになるまで面倒を見る」とスカウトされていた。プロレス界に入るという選択肢が浮上することになる。オリンピックには行けなかった彼はアジア大会後に、馳から招待され新日本プロレスの両国国技館大会を観戦。そこで永田の心は決まった。
「新日本プロレスでプロレスラーになる」
周囲の反対を押し切って「プロの舞台でレスリングを続けたい」と覚悟を伝え了承を得て、1992年5月に新日本プロレスに入門した永田。同期には同年8月に入団するバルセロナ五輪レスリング日本代表・中西学、レスリング日本全日本選手権優勝・石澤常光(ケンドー・カシン)がいた。三人はアマレス三銃士と呼ばれた。またアマチュアスポーツの戦歴は永田に劣るもののプロレスセンスが天才的だった大谷晋二郎、どんな逆境でも屈しない精神力とタフネスを誇る高岩竜一も永田の同期。1992年入門組は新日本プロレス史上最強の黄金世代なのだ。
永田はデビューするまでの日々をこう振り返っている。
「レスリングを諦めきれない僕は、プロレスラーになっても新日本プロレスならまだオリンピック出場のような夢が見られると思っていました。しかし、現実はそんなに甘くありませんでした。とにかく新日本プロレスの道場の練習は信じられないくらいつらく、ハードでした。入団して半年ほどが経つと、リングにも上がるようになりました。学生時代に培ってきたレスリング技術で通用すると思っていましたが、アマレスや格闘技などの実績などほとんどない同期の大谷晋二郎さんに試合で惨敗しました。『プロレスとアマレスとは違う。これではダメだ』と痛感し、プロレスに専念するようになったんです」
【プロレスラー 永田裕志──「負けの経験はプラスにも転ず」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 中編/カンパネラ】
レスリングとオリンピックへの未練を断ち切った永田はこの時、決意する。
「オリンピックを諦めて俺は最強のプロレスラーになる」
「『新日本プロレスが最強であり、ナンバーワン』だと信念を持って、俺のプロレス道を生きる」
当時の新日本は先ほど言及した1992年組以外に1991年にデビューした山本広吉(現・天山広吉)、小島聡、西村修と将来有望な若手レスラーもいたため、ヤングライオンの世界は群雄割拠。そのため前座の試合は大いに盛り上がった。その一方で第一試合の1枠を巡って新人が鎬を削っていたため、時には試合がしたくてもマッチメイクが組まれないこともあり、悔しくて男泣きしていた時代だった。
新人時代の永田について私が感じた印象はとにかく貪欲なレスラーだということである。群雄割拠のヤングライオンの中でとにかく他のレスラーとの差別化を図ることに執心していたように思う。またよく人の試合をよく観察して、先輩レスラーからのアドバイスを自身のプロレスに生かそうとしていた。
ちなみに彼が新人時代から得意にしているナガタロックⅡ(クリップラー・クロスフェース)という技がある。元々はグラウンド状態での左腕を自身の左太ももの上で固定してフェースロックをする技だった。だが、この技を練習中に見た、当時平成維震軍のメンバーとして新日本に参戦していたザ・グレート・カブキから左腕を自身の足で挟んだ方がいいのではアドバイスしたことをきっかけに現在のナガタロックⅡが誕生したものである。
永田はオリンピック日本代表候補になるほどのレスリング実績を誇り、プロレスではグレコローマン仕込みのスープレックス(特にフロント・スープレックスは新人時代から天下一品だった)やボディーバランスは抜群だった。でもそれだけでは他の若手レスラーと突き抜けたものになれない。彼がそこで見出したのはキックボクシングと関節技だった。新日本にレギュラ―参戦していた"関節技の鬼"藤原喜明に指導を仰ぎ、キックボクシングと関節技に磨きをかけた。つまり、プロレスラーとしての「ナイフ」を手に入れようとしたのである。
レスリングとナイフの二刀流はよくよく考えるとアントニオ猪木、前田日明、高田延彦、船木誠勝、橋本真也といった強さを追い求める者達の理想郷「ストロングスタイル」の正統派を歩もうという彼の意思表示だったのかもしれない。同期の中西は持ち前のパワーとスター性で新人ながらメインイベントに登場したり、大谷がジュニアヘビー級でシングル王座を獲得してトップレスラーの一人となった。なかなか浮上できず、第一試合に甘んじていた永田。天龍源一郎のWARや藤原喜明の藤原組といった他団体に参戦して評価を上げてきたのが、肝心の新日本では報われない。長州力の付き人を務めながら、彼は虎視眈々と来るべきチャンスを待っていた。
永田にとって転機となったのは1995年~1996年の二年間。まず1995年3月に開催のヤングライオン杯に悲願の決勝進出、同期の中西に敗れるも試合は永田がリードしたもので内容で評価された。そこから少しづつ、前座だけはなくミッドカードにも組まれたりするようになる。
そして、1995年9月23日・横浜アリーナ大会で新日本プロレスとUWFインターナショナルの全面戦争第一弾として長州力&X VS 安生洋二&中野龍雄が組まれた。長州がパートナーのXに指名したのは同日第一試合で試合をした永田だった。そこで大善戦。敗れたものの、対戦相手の安生の顔面を破壊。永田の存在をプロレス界全体に轟かせた。「新日本にUWFに負けない気概と実力のある若手がいる」という評価を得た。
「長州さんのパートナーは試合直前まで『X』としてしか、発表されていませんでした。試合当日のスケジュールでは、僕は第1試合に他の選手との試合が組まれていて、まさか2試合はないだろうと思っていました。その試合に勝利をして控え室に戻ると、長州さんが俺のもとに来て『Xはお前だよ!』って(笑)。驚きました」
結果として負けたとしても、チャンスと捉えて全力を尽くしていれば、絶対マイナスにはならない。後々ものすごいプラスにも転ずるということを実感しました」
【プロレスラー 永田裕志──「負けの経験はプラスにも転ず」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 中編/カンパネラ】
結果として負けたとしても、チャンスと捉えて全力を尽くしていれば、絶対マイナスにはならない。後々ものすごいプラスにも転ずるということを実感しました」
【プロレスラー 永田裕志──「負けの経験はプラスにも転ず」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 中編/カンパネラ】
UWFインターナショナルとの全面戦争でブレイクした永田は新日本の特攻隊長として団体の看板を背負って闘い続けた。磨き続けたレスリングとナイフがここで役に立ったのだ。そして永田は当時の週刊プロレスでのインタビューである選手との対戦を熱望していた。
その男の名は、田村潔司。後にリングスの若きエースとなり、PRIDEにも参戦して独特の存在感をみせつける"孤高の天才"田村は高田延彦に次ぐUWFインターナショナルのナンバー2。ただ彼は新日本との全面戦争に会社からの出場要請があったにも関わらず、己のUWFを貫くために出場拒否していた。そんな田村に永田は深い思い入れがあった。
それは永田はプロレス入りする前の話。日体大レスリング部でトレーニングを積む彼の前に出稽古に来ていたのが当時UWFインターナショナルの若手レスラー・田村潔司だった。年下に頭を下げて、貪欲にレスリングを勉強して己のスキルとして吸収していこうとする田村の姿勢に永田は心を打たれ、尊敬するようになった。田村との交流がきっかけで、将来プロレスラーになりたいという想いが過るようになった。つまり因縁や対抗戦や全面戦争とは関係なく純粋に永田は田村とプロのリングで対戦したかったのだ。だが田村は新日本に上がることなく、1996年にUWFインターナショナルを離脱し、リングスに移籍。この対戦は実現することはなかった。
1996年、永田はヤングライオン杯の決勝に進出するも、石澤常光に敗れ二年連続準優勝。悔しがり控室に戻ろうとする永田に勝者の石澤が賞金50万円の拡大版小切手を二人に割って永田に渡して健闘を労うという名シーンが生まれた。
そして個人的によく覚えているのがヤングライオン杯が開催された同年の3月シリーズ「ハイパーバトル」。そこで永田は狼群団(蝶野正洋・天山広吉・ヒロ斎藤)とのタッグマッチに挑む機会が多かった。特に元UWF戦士・山崎一夫が結成した山崎隊(メンバーは木戸修・飯塚高史・永田裕志・石澤常光と腕に自信がある実力者)の一員として出場した6人タッグマッチ。八面六臂の活躍をして、ベテラン選手顔負けの試合巧者ぶりをみせつけた永田は惜しくも敗戦。だが解説席にいたマサ斎藤は「今日の永田は100点満点」と大絶賛していた。ヤングライオンとして、ストロングスタイルの系譜を継ぐ男して新人時代にあらゆる経験を積んだ永田にとって1995年と1996年は一気にクローズアップされる転機となった。
1997年1月に永田は海外武者修行に旅立った。日本で積むべき経験をしてきた。あとは海外で実績を残して帰国後にトップレスラーになるという青写真を描いていた。アメリカメジャー団体WCWに遠征した永田はこの時期について次のように振り返っている。
「当時WCW、WWF(現・WWE)がアメリカの二大メジャーなんだけど、新日本とWCWが提携していたこともあるから、僕にしてみればようやく海外修行にいけるという感覚したなかった。向こうのメインで活躍している外国人もかなり知っていたんで、そういう部分では心強かったっていうのはありますね。(中略)3月に試合をしたんですけど、ビザがないから一時帰国して、『マンデーナイトロ』(毎週二時間ゴールデンタイム生放送番組)にデビューしたのは4月ですね。(中略)飛行機トラブルがあって、ディーン・マレンコの対戦相手が来れなくなったと。そこでブッカーのケビン・サリバンに急遽『おまえ出ろ』って言われて『マンデーナイトロ』デビューすることができたんですよ。控室に戻ったら、ケビン・サリバンとかに褒められてね、『凄いよかった!もっと固く蹴っ飛ばしてもいい』って(笑)。ただ、その直後の5月~6月頃にブッカーがテリー・テイラーに変わってしまって、あんまり評価をされずに試合を干されちゃったんですよ。(中略)そこから7月にテレビの集中テーピングがあった時に、ロード・スティーブン・リーガル(ウィリアム・リーガル)と試合をやったんですけど、それをテリー・テイラーが気に入ったらしくて、試合が終わってすぐに僕んとこ来て、『おまえがそんなにできるとは思わなかった。これからどんどんテレビに出てもらう』って言われたんですよ。そこからまた『マンデーナイトロ』に出してくれるようになったんですよ。そこからですね、ウルティモ・ドラゴンとも抗争が始まったのは。当時ウルティモ・ドラゴンについていたサニー・オノオっていうマネージャーがいたんですけど、これがケンカ別れして、サニーは日本人が欲しいと。それで僕も言葉がしゃべれないっていうのがあったので組むようになったんです。それが10月ぐらいですかね。(中略)7月にデビューしたゴールドバーグともやりましたよ。ハウスショーで3回ぐらい、テレビは3回~4回、全部で7回ぐらいはやりましたね。(中略)彼はデビューしてから最終的に173連勝するんですけど、そのうち俺が7勝くらいは献上してるわけですね。まぁ、俺は俺でウルティモ・ドラゴンとの抗争を2ヶ月ぐらいやったのかな?抗争が終わるとテーマがなくなって、試合で負けることも多かったです。(中略)僕がWCWにいた1年半は最盛期なんですよ。そこでちょうど100試合やった。いい経験をしましたね。(中略)3週連続『マンデーナイトロ』に出たらもう街を歩くとすぐ声かけられました。(中略)同じ時期に松田聖子さんがアメリカで活動し始めたんだけど、現地の日本人に言われましたよ。アメリカ人はセイコ・マツダは知らなくても、ユージ・ナガタはみんな知っているよって(笑)」
【ゴング第11号/アイビーレコード】
WCW時代に永田はキックを中心に試合を組み立て、秋山準の得意技であるエクスプロイダーで流れを変えて、ナガタロックⅠ(変型足4の字固め)で勝利してきた。 ちなみにこのナガタロックⅠは安生洋二が使うグランドクロス200に同型で、永田自身はWCWでスパーリングでヒザ十字固めを極めた時に相手が足蹴りで逃れようとしたため、その足を捕らえて4の字状で固めたのがナガタロックⅠだったようである。
1998年8月に海外修行から帰国した永田はいきなりチャンスをものにする。同年9月に開催された「WCW世界タッグ挑戦者決定リーグ戦」に佐々木健介とのコンビで出場した永田は公式戦で先輩レスラー・越中詩郎相手にジャンボ鶴田が得意していたバックドロップ・ホールドで勝利を収め、決勝戦で橋本真也&山崎一夫では、若手時代に指導を受けた山崎に腕ひしぎ十字固めで勝利し、優勝。試合後に、当時IWGPヘビー級王者だった蝶野正洋が首を痛めて、王座を返上。9月23日の横浜アリーナで新日本最強外国人スコット・ノートンとのIWGP王座決定戦に出場を現場監督・長州力に直訴し、新日本隊代表として出陣した。
大方の予想はノートン優勢。だが終盤にノートンがパワースラムで投げた後に永田は三角絞めであのノートンを失神寸前に追い込んだ。試合はノートンが底力を発揮して、投げっ放しパワーボム(超竜ボム)で勝利。永田は見事に玉砕したものの、下馬評が不利と言われる中で好勝負を展開してみせた。
永田が凱旋した時の新日本は闘魂三銃士が全盛期を迎え、長州力の薫陶を受ける佐々木健介が本隊最強の男として君臨していた。また同世代の天山、小島、中西も活躍していたが、トップの壁が分厚かった時代でもあった。トップになろうとしても強固な壁が何個もある状況、同世代もその座を狙う。さらに猪木が柔道王・小川直也を使い新日本に揺さぶりと破壊にかかろうとする始末。まさしく混沌である。
この状況下でトップになるにはどうすればいいのか。無理やりにトップの座をこじ開けて強奪することは困難でより混迷になると判断したのかもしれないし、新日本のことを思ってのことかもしれない。永田は団体内で実績を作り、信頼を築くことにした。まずは試合という作品を残すことを念頭に置いた。その舞台は1999年のG1CLIMAXだった。
コスチュームを黒から青のショートタイツとレガースに変えた永田はG1公式戦で次々と名勝負を残し、藤波辰爾や佐々木健介からギブアップ勝ちを奪った。ブロック同点となった武藤との代表決定戦に敗れ決勝には進めなかったが、きちんと作品を残し、信頼を築くことに成功した。
特に大阪での武藤敬司との公式戦は素晴らしかった。前半から中盤まで武藤と永田はマットレスリングを展開。武藤は寝技ではかつて柔道全日本強化選手で、新日本トップクラスの実力を持ち、スパーリングでも相手を圧倒するモノホン。その武藤のマットレスリングに互角に渡り合ったのが永田だった。そして終盤も武藤を関節技とキックで追い込んだものの、逆転のフランケンシュタイナーからの腕ひしぎ十字固めで逆転負け。しかし武藤には「こいつ、やるな」という想いが去来していたのではないだろうか。
同年8月28日・神宮球場大会で中西学と組んで、後藤達俊&小原道由を破りIWGPタッグ王座を獲得。これが人生初のタイトルだった。
中西との仲がいいのか仲が悪いのかわからない同期コンビも、ナガタにとってはトップになるためのにウェポンだった。永田は怪物・中西を操縦する司令塔としての立ち位置に徹した。同期コンビはIWGPタッグ王座の長期政権を築いた。
試合内容を残した、パートナーはいる。次はユニットを作った。2000年4月、永田は中西、吉江豊、福田雅一と共に「G-EGGS」という本隊内ユニットを結成。ちなみにこのユニットの発案者である永田は長州に了承をもらいに行ったとき、長州から卵から殻を破って成長していくイメージから「チーム・タマゴ」はどうかと言われたが、さすがにこれはダサいと感じた永田はユニット名を協議して「G-EGGS」という名前になったという。
だが「G-EGGS」はいきなり暗礁に乗り上げる。メンバーの福田雅一がリング渦に巻き込まれ、この世を去ったのだ。落ち込む永田。そこに当時新日本にレギュラー参戦していた元UFCファイターのブライアン・ジョンストンが福田の遺志を継いで「G-EGGS」入りをしたのである。
己の頭脳と技能をフル回転させながら、新日本でトップを取るために奮闘する永田。だがなかなかトップの壁は厚い。どうすればいいのか。
2001年になると永田は新日本関係者から「中西を次期エースに推し、永田はその次」という意向を知る。33歳になる。もう若手ではない。順番待ちはできないし、もう我慢できない。
そんな時だった。2000年に新日本を離脱した橋本真也が新団体「ゼロワン」旗揚げ戦で橋本&X VS 三沢光晴&秋山準(プロレスリング・ノア)という夢のカードが決まったという話を道場で新聞記者から聞いた。それがきっかけで事態は思わぬ方向に進む。
「あの頃は僕自身、凄くガツガツしていたというかハングリーだったというか、何かこの業界に風穴を開けたいと。自分にとって勝負の年だと思っていまして、ハッキリ言ってノアがどうのこうのよりも『自分を大きな舞台で表現したい!』という気持ちが強かったんですよ。(中略)たまたまその時に内外タイムスの記者がいたから『このXに俺が入ったらどう思う?』みたいな話をしたら『それは最高ですよ!』って記者が記事にしたのがきっかけです。ハッキリ言って、何の裏もない"飛ばし記事"ですよ。(中略)でもそれが波紋を呼んで現実になっちゃったんですよ。その記事を読んだ橋本さんが興味を持ってくれて、人を介して『真意はどうなんだ?』っていうメッセージが来たから、『僕はそういうチャンスがほしいです』って返したら『だったら連絡してこい』っていうことになりまして、橋本さんに連絡して自分の現状とかを1時間ぐらい話したんですよ。『だったらそれを会社(新日本)に筋を通して、ОKをもらってから、また連絡してこい』と。それで現場監督の長州さんの家に行って話をしたんですけど、いきなり『いいよ!』と言われたから『ええっ⁉』って。凄い拍子抜けしたんですよ、難しい話だと思っていただけに(苦笑)」
【俺たちのプロレスvol.2 三沢光晴が教えてくれたこと/双葉社】
【俺たちのプロレスvol.2 三沢光晴が教えてくれたこと/双葉社】
こうして永田は橋本のぱートナーXとなり、ノアの三沢と秋山と闘うことになった。ただこのカードは二転三転。一時期は永田は出場しないという話になっていたが、土壇場で出場することになった。2001年3月2日ゼロワン旗揚げ戦で実現した闘魂と王道が邂逅する夢のカードが実現した。そこで永田は三沢&秋山と高度な攻防を展開し大いに株を上げた。また同世代の秋山との絆もこの時に生まれた。
「その頃、様々なひずみが新日本プロレスに見られていました。プロレスラーとして流派が違う彼らと触れることで、自分自身はどうなるんだろうと、表現しにくい不安を感じる一方で、興奮も感じていました。中でも秋山選手は、僕とは育った環境は違いますが、実際に対戦してみてレスラーとしての波長はとても合っていると感じました。振り返ると、当時は僕自身がプロレスを取り巻く環境やその時代に挑戦すべき年だったんです。そしてプロレスラーとして何かを残さなければならない。それができなければ、自分は負けだ。だから何でも来い!と思っていました」
【プロレスラー 永田裕志──「負けの経験はプラスにも転ず」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 中編/カンパネラ】
【プロレスラー 永田裕志──「負けの経験はプラスにも転ず」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 中編/カンパネラ】
自ら行動して、外に出て刺激てな新たな話題を提供して中西をエースにするという青写真を変えようとした永田。現にゼロワン旗揚げ戦に出場後の同年4月7日・大阪ドーム大会で中西とのIWGPヘビー級挑戦者決定戦を制し、同年6月8日の日本武道館大会で藤田和之とのIWGPヘビー級戦で同年東京スポーツプロレス大賞ベストバウトに選出されるほどの名勝負を残した。さらに夏のG1CLIMAXを制覇。10月8日東京ドーム大会とノアの秋山とドリームチームを結成し、BATTの武藤&馳とこれまた名勝負を残した。着々と実績を残し、中西に代わり次期エース候補となった。捲土重来。あとはIWGPヘビー級王座を手にするだけとなった。だが永田の前に立ちはだかったのは"天才"武藤敬司。G12001決勝戦で悲願の武藤から勝利して優勝したものの、まだ武藤越えを果たしたとは言い切れなかった。武藤の懐の深さと余裕とプロップスを奪えていなかったからだ。
そんな時に永田に舞い込んできたのがK-1戦士との総合格闘技戦のオファーだった。2001年12月31日さいたまスーパーアリーナで開催される「INOKI BOM-BA-YE 2001~猪木軍VSK-1軍 全面対抗戦~」に新日本のオーナーである猪木軍のメンバーとして出陣。対戦相手は同年8月に藤田和之を破った"プロレスハンター"ミルコ・クロコップ。これまで永田は新日本で何度も異種格闘技戦を闘い勝利をしてきた。だが今回は勝手が違う。しかも新日本の看板を背負っての総合格闘技参戦。勝てば万々歳かもしれないが、負けたら新日本とプロレスの看板を汚すことになる。
トップを取るために武藤越えを狙う永田。武藤には人々を惹きつけるカリスマ性と華麗さがあり、永田には残念ながら不足している。"ミルコ・クロコップとの総合格闘技戦で勝利して、プロレスの看板を守り、プロレス最強を証明することができれば武藤にもできなったことを成就し、カリスマ性を手にしてプロレス界の救世主になれるかもしれない。あまりにもリスキーな博打。永田は悩んでいた。
「俺自身の基本的スタンスは藤田和之や安田(忠夫)さんとは違って、新日本でプロレスをやって、そこに格闘技の選手が来るなら迎え撃つと。現に藤田戦、マーク・コールマン戦とやってきたし、その内容には自負があります。ただね、武藤さんという存在がやっぱり大きすぎる。センス、ルックス、華麗さとかなわないですよ。じゃあ自分に勝てる部分になると、格闘プロレスというものであって、そこから派生してK-1というものに触れてみたいという気持ちがちょこっとだけ出てきたのは事実です。武藤さんが老いていくのを待つんじゃなくて、レスラー人生の集大成を見てつけている武藤敬司に、何かドカンとぶち込みたいなっていう。(中略)1・4ドームがあるわけですから、それ(『猪木祭り』出場)は難しいでしょう。ただ気持ちの中でね、一発限定で勝負して勝ったら勝ったで大喜びして、ボロボロに負けたって平気な顔で1・4に上がっていく自分だってカッコいいんじゃないかなってね。(中略)ただこうやって猪木会長から名前が出たことによって、マスコミが焚き付けてくるのは冗談じゃないですよ。(中略)高田さんの発言(なぜ藤田がやられたのに、プロレスラーは黙っているのか?このままではプロレスラーは腰抜けで終わってしまう。新日本の選手が出るのならミルコ戦の対戦権利を譲る)はないでしょう。あそこで新日本を引き合いに出すのはズルイやり方ですよ。ただもしかしたら今が俺にとって勝負の時なのかなっていう感覚もあるんですよね。それって焦りなのかなぁ…だけど、年齢的に悠長なこと言ってられないところまで来てるわけで」
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
彼はプロレスラーとしての意欲と格好が交差する中で悩んでいた。猪木から「本当は出たいんだろ」と言われ、藤田からは「永田さんならいけますよ」と焚き付けられたが、かつてグレイシー柔術とPRIDEで対戦し一敗地にまみれた経験を持つ石澤からは「やめたほうがいい。すべてが崩れるぞ」と中腐れ、会社から「本人の意思を優先」と言われさらに悩んでしまう。マスコミからは永田待望論もあがり、いよいよ後には引けなくなった。永田はミルコと総合格闘技ルールで闘うことを決断する。一か八かの大勝負に出た。だが結果は多くのプロレスファンを裏切る結果に終わる。開始21秒、ミルコの一左ハイキックでTKО負け。彼にとって、プロレスファンにとっての悪夢到来である。永田はミルコ戦についてこう振り返る。
「リングに上がっても緊張感はそれほどなくて、変な動きとかビビったりとかは全然なかった。あ、藤田が言ってたのはコレだないって。『上がってしまえばプロレスより楽ですよ』って。(中略)パンチを2発ぐらいもらったけど、別に痛くもなんともなくて、ああ、こんなものかなって。それで左が伸びてきたんで、それを払って前へ出ようとした瞬間ですね。正直いって見えなかった、あの蹴り(左ハイキック)は。悔しいな、時間が経つと悔しさがこみあげてきますね。確かにミルコは強い。練習してるし、自信を持ってるなって」
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
実は永田はミルコ戦から4日後の2002年1月4日・東京ドーム大会で秋山準が保持するGHCヘビー級王座に挑戦するビッグマッチが決まっていた。秒殺負けによるバッシングを覚悟していた。だがファンは温かった。そして対戦相手の秋山は前日の記者会見で永田をこう讃えた。
「永田選手への評価は何も変わらない。逆にそれをプロレスにとってプラスにしていきたいし、彼のことだからもう何かを考えているでしょう。周りは同じに考えちゃうだろうけど…本来はサッカー選手がバスケットボールで勝負するようなものだから。俺にはできないことだし、結果以前にもう永田裕志があのリングに立った時点で、"凄いな"って俺は思ってますから」
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
永田は秋山とドームのメインイベントにふさわしい好勝負を展開、試合には敗れたものの、永田はその強さと技能を見せつけた。
試合後、永田は泣きながら控室に戻っていた。万雷の拍手と「永田、頑張れよ!」という声援が彼を包む。悔しいとか悲しいとか嬉しいとかではない重圧から解放されたという表れが自然と涙に変わったのだ。
ようやく訪れた捲土重来のトップ取りのチャンス。真のトップを取るために野心と葛藤を乗り越えた上で挑んだミルコ戦での敗戦という悪夢到来。秋山との好勝負。彼は2001年に天国と地獄と一気に味わった。ただ時が経つにつれ、永田のミルコ戦敗戦はプロレス界全体にとって大きなショックとなり、プレレス界はやがて暗黒時代に突入する。その呼び水となってしまった。彼は一部から「プロレス崩壊のA級戦犯」「永田は終わった」と言われてしまう。後に長州が「天下を獲り損ねた男」と評した要因のひとつである。
それでも永田はこう語る。
「ミルコとやらなかった永田裕志っていうものが、まったく想像もつかないんですよ。(中略)プロレスのリングって不思議なものでね。本当に人間のくぐってきた修羅場とかが投影される。猪木さん、長州さんなんか、そういうのがもろに出るじゃない? 生まれながらの環境だとか、人生を生き抜いてきたものとかね。俺みたいな普通に恵まれた環境で生きてきた人間には、やっぱり必要なことだったと言えるでしょう」
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
【子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社】
2002年、新日本を揺るがす事件が発生する。看板レスラーの武藤敬司が小島聡、ケンドー・カシン、幹部社員を引き連れて新日本を離脱していき、全日本に移籍する。武藤越えを目指した永田だったが、ミルコ戦に敗れ、武藤越えのチャンスを逃し、自身が望んだ真のトップになることはできなかった。それでも前に進むしかない。同年4月5日・東京武道館で安田忠夫を破り、悲願のIWGPヘビー級王座を獲得する。そこから2003年5月まで1年1か月間、強豪レスラーを相手に好勝負を連発しV10を果たし、当時の防衛記録を更新した。王者らしい立ち振る舞いと技量と強さからミスターIWGPと呼ばれた。
だがらといって新日本のエースだったかというとそうでもなかった。どちらかというと守護神として団体を死守していたという印象が強い。これは天山にしても中西もそうだが、新日本で第三世代と呼ばれるレスラー達は誰もエースになれなかった。その理由は彼等の前に立ちはだかった猪木、長州、藤波の昭和プロレスのレジェンドや闘魂三銃士の存在があまりにも大きかったのではないだろうか。そこに時代の流れがプロレスから格闘技に移行していったのとプロレス最強神話崩壊、上の世代より勝るカリスマ性やサムシングを提供できなかったことがこれでもかというぐあいに重なったことも要因である。後に棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカ、内藤哲也が出現して新生・新日本プロレスとして黄金期を築くことができたのは、第三世代が後輩レスラーの礎になったのも大きいだろう。
2003年12月31日神戸ウイングスタジアムで開催された「INOKI BOM-BA-YE 2003」で永田は猪木から懇願され急遽、エメリヤーエンコ・ヒョードルと総合格闘技ルールで対戦することになった。総合格闘技世界最強の男とのあまりにも無謀な対戦。ほぼ準備していない中での出陣、結果は見えていた。72秒で完敗。プロレスファンからの批判を受けた。それでも永田は…。
「かなり無謀だったかもしれませんが、後悔はありません。当時は、『プロレス最強』という幻想から脱皮しないとプロレスは生き残れないと思っていました。ファンの人の夢を奪ってしまったかもしれない。でもいつかは目覚めなきゃいけない。それを、体現したのは僕だなと思っています(笑)。今だから、言えるんですけどね」
【プロレスラー 永田裕志──「自分の生き様をリングに投影する」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 後編/カンパネラ】
【プロレスラー 永田裕志──「自分の生き様をリングに投影する」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 後編/カンパネラ】
天下を獲り損ねた男と言われた永田は多くのレスラーが新日本を離れ、団体経営が悪化していく中で団体に残る道を選んだ。新日本・ノア・全日本のタッグ王座とシングルリーグ戦制覇という快挙を成し遂げ、2007年4月には棚橋を破り、二度目のIWGPヘビー級王座を獲得。永田は新日本を背負い闘い続けた。総合格闘技で秒殺負けを続けても、どんなにヤジられても、どんなに観客が少なくなって、彼はリングで生きることで「プロレスと新日本の看板を汚してしまった事実」と向き合い、責任を果たそうとした。そこにはプロレスラーとしての覚悟と矜持があった。
「理想的なプロレスラーの仕事とは、自分が生き延びるだけじゃなく、自分の価値を上げるとともに所属団体に利益をもたらし、プロレス全体を底上げすることだ。それが真のプロなんだと思っていました。(中略)はっきりと言えることは、プロレスの世界は売れた者、生き残った者が勝ちなんです。常に自分より上位にいるレスラーに挑戦し、序列を乗り越えていかなければなりません。ファンやメディアなどの周囲の目や声に対しても、結果を出し突き破らなければ、その先には行けない。チャンピオンになったらなったで、新たな壁が必ずありますからね」
【プロレスラー 永田裕志──「自分の生き様をリングに投影する」栄光と挫折の狭間で知った本当の強さ 後編/カンパネラ】
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そんな中で2006年から永田は試合はストロングスタイルと変わらないが、ダサさやコミカルな一面を披露するようになる。また白目をむいた鬼気迫る表情から「鬼神」「キラー永田」と呼ばれるようになったのもこの時期からである。この路線になってからファンから嘲笑される機会も増えたが、それでも新日本に注目してもらえるためならダサいことでも俺はやり続けた。だから白目をむいて腕折り固めは新日本の名物となった。「ダサくもいいじゃないか!」という永田の心からの咆哮が聞こえてくるかのように…。
永田ら所属選手の奮闘もあり、新日本は起死回生の復活を果たし、2010年代になり、親会社がブシロードに代わり、黄金期を迎える。2018年には過去最高の49億円の売上を計上。新日本はプロレス界の盟主となり、新時代に突入する。永田は今年(2019年)、51歳となった。第一線としてリングに上がるも、ビッグマッチに組まれない機会も増えてきた。それでも彼は青義(せいぎ)の信念とアンチエイジングを掲げ、今の新日本で己の健在を見せつける。2016年5月3日の福岡大会では柴田勝頼を破り、NEVER無差別級王者となった。
そんな彼がリングで貫いてきたのがヤングライオン時代に教わった「新日本の真髄とはストロングスタイルのことであり、それは闘いである」というアイデンティティ。思えばストロングスタイルを追求した男達は団体を旗揚げしたり、信念を貫くために離脱したりと新日本から離れる決断をしているが、永田は違う。団体に残って底上げしながら、時代が変わって、ストロングスタイルが絶滅危惧種となっても、時代に適合しながら、ストロングスタイルは提示していく。それが彼の生き方だ。私が永田こそ純正なるミスター・ストロングスタイルではないかと思うのだ。彼ほど長年、ストロングスタイルを追い求めてきた男はいない。
そんな彼にとってのストロングスタイルとは…。
「僕らは若い頃から、『新日本の真髄とはストロングスタイルのことであり、それは闘いである』と教えられてきました。でも、それだけでは何のことかわからなかったんです。今の僕が思うのは、ストロングスタイルとは、闘いにおける感情をストレートに出すってことではないか。そもそも新日本のストロングスタイルは、アントニオ猪木さんのジャイアント馬場さんに対する対抗心から生まれたものだと思います。馬場さんは外国人の有名選手を呼べるルートがあったけど、猪木さんは持ってなかった。その代りに試合内容では絶対負けないっていうパワーが生まれ、それが新日本の個性になった。ストロングスタイルとは、競争に対する意識であり、嫉妬や悔しさも巻き込んで自分自身を高めていく姿勢のこと。それが時に大きな力を発揮する──。東京ドームで棚橋(弘至)や中邑(真輔)といった後輩たちと競った時代を経て、僕はそう解釈していますね」
【ケトルVOL.46/太田出版】
2018年、永田とサントリーの缶コーヒー・BOSSのスペシャルコラボムービー『BIG STYLE』が公開された。それは永田のレスラー人生が凝縮した内容だった。
「俺たちは、消耗品かもしれませんが使い捨てじゃないんです」
「25年間時代の中で、会社の中で、そしてリングの中で戦ってきたんですよ」
「プロレスから学んだのは、たとえ倒れても、また立ち上がればいいってことですよ」
「25年間時代の中で、会社の中で、そしてリングの中で戦ってきたんですよ」
「プロレスから学んだのは、たとえ倒れても、また立ち上がればいいってことですよ」
そうなのだ。永田はいつだって追い風でも向かい風が吹こうが、時代に立ち向かい続けた。時には批判もされた。A級戦犯と言われた。ダサいと言われた。終わったと言われた。それでも彼はリングから離れず最前線のリングに立ち続けた。継続は力になる。その継続は最終的にレスラーへの信頼へと変わる。その法則を信じているからこそ永田は新日本でプロレスラーとして生き抜いてきたのだ。
海外修行から凱旋した当初、永田は黒のTシャツやジャケットの背中に黄金の縫糸で「徒手空拳」という言葉を刻んでいた。「徒手空拳」とは 手に何も持っていず、素手であること。資金・地位など頼るものがなく、自分の身一つであることという意味がある。この身一つで物事を動かしていくという志だ。永田はいつも「徒手空拳」という志をもってレスラー人生を歩んできたのではないだろうか。
天下を獲りたいという野心。新日本で生きる、プロレスラーとしてどんな状況下でも逃げずに挑むという覚悟。プロレスラーとしての功罪を背負うという責任。すべては良くも悪くも自業自得で、それでも立ち続けることで己の生き様をリングにさらけだしてきたのが永田裕志という男である。天下を獲り損ねても、新日本を支えることが自分の責任だと誓い波乱万丈のレスラー人生を歩んできた永田裕志こそ新日本プロレスを見事に死守してきた象徴であり救世主だったのではないだろうか。
"ミスター・ストロングスタイル"永田裕志。彼は今日も彼にしか描けないプロレスを満天下に知らしめ、新日本で威風堂々と生きている。
新旧洋邦のプロレスラーを考察する連載「俺達のプロレスラーDX」は最終回となりました。6年に渡りご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。ブログでは今後、引退や逝去されているレスラーにスポットライトを当てた連載「俺達のプロレスレガシー」が始まります。今後とも当ブログをよろしくお願いいたします。
※この記事は2019年5月28日にnoteで更新した作品を一部修正させていただいたものです。